礼拝メッセージ

7月15日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「主の死の教育」              ルカの福音書9章28~36節

人は病院で生まれ、病院で死を迎える。これが生と死の現代社会の姿であります。かって日本社会は、日常生活の中で生と死を間近に見ることが出来、触れることが出来ました。家で出産し、家で家族に看取られながら死を迎えました。それが当たり前の生活でした。今は生も死も私たちから隔絶されたところでの出来事になってしまいました。                                                                       さて主イエスと生活を共にしていた弟子たちは、死を間近に見る機会を与えられていました。特に主イエスは、ペテロとヤコブとヨハネの三人に対して、死の教育に注意を払われておられました。①ヤイロのひとり娘の死(ルカ8:49~51)②主イエスの最期について(ルカ9:28~31)③ゲッセマネの祈り(マルコ14:32~34)これら三つの出来事に共通していることは、「死」が中心の主題であり、この場面に必ず、三人だけを立ち合わせておられたということです。この事実は確かに重要な意味を含んでおります。ヤイロの娘の死については、3人は主イエスが死を支配されるお方であることの目撃者でした。山上では栄光の主の姿を目の当たりにすることが出来、死を寄せつけず、死を超越した主イエスが、やがて完成されるべき、ご自身の十字架の死について、モーセとエリヤと話し合われておられる姿の目撃者でした。ゲッセマネの園では、十字架の死を前にして恐れおののく、死に支配される姿の目撃者でした。このように三つの死に関する場面に触れさせ、それぞれの死の意味を考えさせ、死の教育を与えられたのです。特にベテロは晩年自分の死について、ペテロの手紙第二1章15節で、主イエスの栄光の目撃者としての証言を語る中で自分の死について「私の去った後に」という表現を使いました。この言葉はペテロがあの主イエスの変貌の山上で聴いた、主イエスの「エルサレムで遂げようとしておられるご最後について」(ルカ9:31)という同じ言葉を使いました。ペテロは主イエスの死を意味する「ご最期について」という言葉を決して忘れはしなかったのです。この言葉を用いたペテロは、自分の死を主イエスの十字架の死とのつながりの中で見つめ、自分の死の意味を理解したのです。「主イエスと共に在る死」「主イエスと共に死にゆく者」、これこそがペテロが理解した自分の死の意味でした。                                                                                   子どもの時から、しっかりした死生観を育む必要が叫ばれている今日、死が何であるかを子どもたちに伝えるのは、大人の役目です。そのため主イエスは聖餐式を通して死について考えさせ、記憶させ、死の教育を私たちに続けておられるのです。


礼拝メッセージ要旨一覧はこちら