「召しと選びを確かなものとする」 Ⅱペテロの手紙1章8〜11節
今日はペテロの手紙第二1章8節〜11節の御言葉を通して、救われた私たちがなぜ絶えず霊的に成長すべきなのか、そしてその成長が私たちの人生にどのような実をもたらすのかについて、ご一緒に考えてみましょう。
ペテロは、以前にお話しした八つの信仰の徳目(信仰、徳、知識、自制、忍耐、信心、兄弟愛、愛)が私たちの内にあって豊かになるなら、主イエス・キリストを知る上で「役に立たない者」や「実を結ばない者」になることはないと教えています。信仰の成長が止まってしまうと、近視眼的になり先が見えなくなり、ついには自分が罪からきよめられたという恵みの事実さえも忘れてしまう「霊的な盲目」になってしまうのです。
本文の10節には、「自分たちの召しと選びを確かなものにするように、いっそう励みなさい」という勧めがあります。救いはすべて神様の恵みによるものですが、その救いの「確認」と「喜び」は、私たちの信仰の歩みを通して、より確かなものになるという意味です。私たちがこれらの徳目を励んで身につけていくとき、信仰の道でつまずくことなく歩んでいくことができるのです。
クリスチャンの人生は、この地上だけで終わるものではありません。私たちが主の教えに従うことに励むとき、神様は私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの永遠の御国に入る恵みを豊かに与えてくださいます。主の喜びに満たされて御国へと迎え入れられることを約束してくださっているのです。
私たちの救いは、決して揺らぐことのない神様の約束の上にあります。しかし、その救いの豊かさを味わえるかどうかは、今日私たちがどれほど主に従おうと励むかにかかっています。召しにふさわしい歩みを通して、日ごとに救いの確信を新しくし、永遠の御国を待ち望みながら力強く進んでいく者になりたいと思います。
「主に立ち返らせる」 ルカの福音書1章8〜17節
今日はルカの福音書1章8節から17節の御言葉を通して、バプテスマのヨハネの誕生予告と、そこに込められた神様の深い摂理について分かち合いたいと思います。
当時のイスラエルは、預言者マラキ以来、約400年もの間、神様の言葉が聞こえてこない時代を過ごしていました。まさにその時、祭司ザカリヤがくじ引きによって選ばれ、主の聖所に入って香をたくという栄光ある奉仕をすることになりました。香をたくことは、祭司の一生に一度あるかないかという特別な恵みであり、立ち上る香の煙は聖徒たちの祈りが神様に届くことを象徴しています。ザカリヤが香をたいている時、主の使いが現れ、「あなたの願いが聞き入れられた」と宣言しました。
ここでいう「願い」には二つの意味が含まれています。一つ目は、ザカリヤ個人の長年の祈りである「子供を与えてください」という願いです。そして二つ目は、祭司として捧げた「イスラエルの救いと平和」のための祈りです。ザカリヤ夫婦はすでに高齢で、人間的な希望は絶たれた状態でしたが、神様は人間が絶望的だと思うその状況こそが、神様の御業が始まる最善の時であることを示されました。祈りの答えは、私たちのスケジュールではなく、神様の主権的な時に、最も良い形で実現するのです。
生まれてくる子ヨハネは、特別な使命を帯びています。彼はぶどう酒や強い酒を飲まない「ナジル人」のように区別された人生を送り、母の胎にいる時から聖霊に満たされます。その働きは、エリヤの霊と力をもって、イスラエルの民を主なる神様に立ち返らせることです。人のかたくなな心を神様へと向けさせることは、人間の力ではなく、ただ聖霊の働きによってのみ可能であることを教えています。
私たちもヨハネのように聖霊に満たされ、福音を証しする者となりたいと願います。時には祈りの答えが遅いと感じられることがあっても、神様は必ず聞いておられ、最善の時に成し遂げてくださるということを覚えたいと思います。自分の力ではなく聖霊の助けを求めつつ、大切な人々の救いのために祈りつつ、自分に与えられた信仰を証しする者になりたいと思います。
「神のご性質に預かる者」 Ⅱペテロの手紙1章4〜7節
本日の本文は、私たちクリスチャンが目指すべきゴールである「神のご性質にあずかる者となる」ことについて、その具体的な歩みについて一緒に考えてみたいと思います。
神様は私たちに、尊く素晴らしい約束を与えてくださいました。この約束の目的は、私たちが世の欲望による腐敗を免れ、「神のご性質」にあずかる者となることです。これは罪によって失われてしまった神様の似姿(知恵、聖さ、義、善、真実など)を回復し、神様に似た者へと変えられていくことを意味しています。
ペテロは、その成長のために私たちが励むべき八つの信仰の姿を示しています。 すべての土台となる「信仰」の上に 道徳的な「徳」を、徳に神様を知る「知識」を、知識に 欲望をコントロールする「自制」を、自制に苦難に耐える「忍耐」を、忍耐に神様の前に立つ「敬虔)を、敬虔に兄弟姉妹を愛する「兄弟愛」を、そしてこれらすべての完成である「愛」を加えなさい、と勧めています。
ここで大切なのは、この歩みには「神様の恵み」と「私たちの努力」の両方が必要だということです。神様はすでに、私たちがいのちと敬虔に生きるために必要なすべての力を、恵みとして与えてくださいました。そして私たちが救われたのは、単に天の御国に行くだけのためではありません。この地上において神様の恵みと愛を表し、証しして歩んで行くことも求められているのです。
その歩みにおいて私たちは神様の恵みをより頼み、まるで素晴らしい演劇のために惜しみなく費用を払って準備する人のように、最善を尽くしてその姿を自分の人生に加えていかなければなりません。
信仰の歩みにおいて神様の恵みに支えられ、イエス・キリストのご性質に似た者へと成長し、神様に喜ばれる信仰の道を歩んで行く者になりたいと思います。
「神の前に正しい人」 ルカの福音書1章5〜7節
今日はルカの福音書の始まりに登場する、ザカリヤとエリサベツについてご一緒にみてみたいと思います。当時のイスラエルは、非常に暗い時期を過ごしていました。ヘロデ王の残酷な統治下にあり、マラキ書以来、約400年もの間、神様の言葉が与えられていなかったの時代だったのです。人々は「神様の約束は忘れられてしまったのではないか」と落胆していました。まさにその時、神様はヨハネの誕生を通して長い沈黙を破り、救いの歴史を再び動かし始められたのです。
本文に登場する二人の名前には、素晴らしい意味が込められています。ザカリヤは「主は覚えておられる」、エリサベツは「主は誓われる」という意味です。神様は彼らの名前を通して、「わたしはあなたがたを忘れていない。わたしの約束は必ず守る」というメッセージをすでに宣言しておられたのです。
本文の6節を見ますと、この二人は「神の前に正しい人」であり、主のすべての命令を「落ち度なく行っていた人」だと記されています。ここで注目したいのは、彼らがこのように正しい人生を送れたのは、決して人生が豊かに与えられていたからではない、ということです。彼らには子供がおらず、すでに高齢でした。当時のユダヤ社会において、子供がいないことは大きな悲しみであり、時には恥ずべきことだと見なされていました。
彼らは長い間祈り続けましたが、答えは得られず、周囲からの冷たい視線に耐えなければなりませんでした。しかし、ザカリヤとエリサベツはその深い悲しみや苦しみを、むしろ、その痛みを抱えたまま、毎日神様の前に進み出たのです。悲しみがあったからこそ、より神様に近づき、そのたびに注がれる神様の愛で心を満たされて頂きました。暗い時代、そして個人的な苦難の中でも、真の支配者である神様だけを見上げて、黙々とその道を歩み続けたのです。
私たちの人生にも、時には苦しみの時があり、痛みや困難が訪れることがあります。しかし、ザカリヤとエリサベツのように、その苦しみの時に神様の前に進み出て行きたいと思います。神様は私たちを覚えてくださり、その約束を必ず果たしてくださる方であることを信じる者になりたいと思います。暗い世の中で神様の光を照らしながら、一歩一歩、信仰の道を歩んで行く者になりたいと思います。