礼拝メッセージ要旨

1月28日(日)礼拝メッセージ要旨

 

「いのちと敬虔をもたらす力」         ペテロの手紙第二1章1〜3節

今日はペテロの手紙第二となります。このペテロの手紙第二は、使徒ペテロが人生の終わりに、まるで遺言のように残した手紙と考えられています。ペテロは自分の死が近いことを知り、残される愛する聖徒たちへ、大切な教えを伝えようとしました。

まず、私たちが心に留めるべきことは、私たちが持っているこの「尊い信仰」は、決して自分の努力や立派な功績で手に入れたものではない、ということです。ペテロは、この信仰が「私たちの神であり救い主であるイエス・キリストの義によって」与えられたものだと語っています。つまり、信仰は神様からの一方的な恵みの贈り物なのです。私たちが今、神様の子どもとしてここにいるのは、完全に神様の愛によるものなのです。

そしてペテロは続けて信仰者となった後の「歩み」について優しく語りかけます。その歩みは「いのちと敬虔」の歩みです。神様は、私たちがただ「救われた」という結果に満足するだけでなく、神様に似ていく聖い生活、いのちと敬虔の道を一歩ずつ歩んでいくことを願っておられます。

ところが、この道は決して楽なものではありません。時には失敗したり、罪に負けてしまったり、苦難を前にして「もうダメだ」と無力さを感じることもあります。「果たして自分は、この道を最後まで歩き通せるだろうか」という不安に襲われることもあるでしょう。しかし、ペテロは私たちに素晴らしい慰めの言葉を与えています。それは「主イエスの、神としての御力は、いのちと敬虔をもたらす すべてのものを、私たちに与えました。」というのです。

私たちが信仰者としていのちの敬虔の歩みを歩むために必要な力は、自分の中から出るものではありません。主イエス様が、ご自身の神としての力によって、すでに私たちにすべてのものを備えてくださいました。ですから、私たちは自分の力でその道を歩むために努力することとともに、主がすべての力を与えてくださるということを覚えてより頼んで歩んで行かなければなりません。

私たちに必要なすべてのものを、すでに惜しみなく与えてくださる神様を心から信頼したいと思います。私たちをご自分の民として召してくださった恵みを覚えて、いのちと敬虔の道を喜びとともに歩んで行く者になりたいと思います。

1月11日(日)礼拝メッセージ要旨

 

「福音、確かな教え」               ルカの福音書1章1〜3節

今日からルカの福音書をともに学んで行きたいと思います。新約聖書には四つの福音書がありますが、ルカの福音書には他のものとは違う特徴があります。著者のルカは、福音書を書いた人の中で唯一の異邦人でした。そして、この手紙を最初に受け取ったのも、神様のことをまだよく知らなかった異邦人たちだったのです。ですからルカの福音書は、異邦人が異邦人たために書いた福音書です。

ルカはこの福音書を書くとき、ただ聞いた話を並べただけではありませんでした。今日の箇所で彼は、すべてのことを初めから詳しく調べて」書いたと伝えています。当時、すでに多くの人がイエス様についての記録を残そうとしていましたが、ルカは直接話を聞き、歴史的な事実を一つひとつ丁寧に調査し、「順序を立てて」まとめ上げました。

ルカがこれほどまでに情熱を注いで記録したのは、なぜでしょうか。それは、宛先であるテオフィロ、そして今を生きる私たちが、すでに学んだことが確かな事実であることを知るためなのです。テオフィロは、もともと偶像崇拝の文化の中で育った人でした。そんな彼に、イエス・キリストの出来事が単なる作り話や神話ではなく、この世を造られた神様が人となって来られたという、歴史的事実であることを伝えたかったと思います。

私たちの救いの確信は、どこにあるでしょうか。時には、熱い感情や不思議な体験が確信を与えてくれるように感じることもあります。でも、感情は状況によって変わってしまいますし、体験は時間が経つと薄れてしまうものです。私たちの信仰が揺るがないためには、自分の感覚よりももっと確かな土台、つまり「神様の言葉」という事実の上に立つことが大切です。

ルカが伝えてくれるこの確かな福音の記録を通して、イエス様がなさったことがいかに真実であるかを、確実に覚えて救いの喜びに満ち溢れて歩んで行きたいと思います。

1月4日(日)礼拝メッセージ要旨

 

「主とともに歩む」             マルコの福音書3章13〜19節

今日はマルコの福音書3章から、イエス様が12人の弟子を選ばれた出来事について、共に考えてみたいと思います。当時、イエス様の周りには大勢の人々が集まっていましたが、主はその中から特別に12人を選び、山へと呼び寄せられました。

まず心に留めたいのは、この招きが完全にイエス様の主権によるものだった、ということです。聖書には、主が「ご自分の望む者たちを呼び寄せられた」と記されています。弟子たちの能力や資格などが基準ではありませんでした。ルカの福音書6章12節によりますと、イエス様はこの12人を選ぶ前に、夜明けまで神様に祈り、ただ神様のみこころに従って彼らを選ばれたのです。私たちも同じです。自分の力ではなく、神様の豊かな恵みによって、今日この場所に招かれているということを、心に覚えたいと思います。

そしてイエス様が弟子たちを呼ばれた目的は、大きく分けて二つあります。一つ目は「彼らを身近に置くため」、そして二つ目は「宣教に遣わし、悪霊を追い出す権威を与えるため」です。イエス様は、弟子たちに何か仕事をさせる前に、まず「ご自分のそばにいて、ともに過ごすこと」を望まれました。主のそばで学び、主の心に触れることこそが、弟子の歩みの本質なのです。その親密な交わりがあってこそ、私たちは福音を伝え、暗闇の力に打ち勝つ力をいただいてこの世へと出て行くことができるのです。

しかし、12人のリストの最後には、イスカリオテのユダの名前があります。すべてをご存じのイエス様が、なぜ後に自分を裏切る者を選ばれたのでしょうか。それは、イエス様が私たちの罪をあがなうために、自ら進んで十字架の道を選ばれたことを示しているのです。

神様は今日も私たちを呼んでおられます。私たちが完璧だから呼ばれたのではありません。ただ主のそばに留まり、主の愛を学び、その愛の力で多くの人々に福音を伝える証人として歩むことを願っておられます。その恵みの招きに感謝し、日々主とともに歩んで行きたいと思います。