礼拝メッセージ要旨

7月30日(日)礼拝メッセージ要旨

 

「取り去られない恵み」             Ⅱサムエル記7章1〜17節
本日の本文でダビデは、神様のために神様の家を建てたいと願います。その切っ掛けは「この私が杉材の家に住んでいるのに、神の箱は天幕の中に宿っている。」と言うことからでした。ダビデの家、即ち王宮はとても立派なものでした。Ⅱサムエル記5章11節によりますと、シロの王ヒラムが杉材と大工と石工を送り建てたものでした。当時のイスラエルにおいても見たことのない、とても立派な建物が建てられたことだと思います。その反面、神の箱は天幕に置かれたままでした。それも長い間、ずっとその状態でした。ダビデはイスラエルの全体の王となり「主は、周囲のすべての敵から彼を守り、安息を与えておられた。」とある程度安定した時に、その状況に気づき、新しく神の家を建てたい、と思ったことでしょう。
それに対して預言者ナタンも賛成するものでしたが、4節以降の内容を見ますと、ダビデの願いは神様のみこころではなかったことが明らかになります。神様はイスラエルの民にしても、ダビデにしても一度も杉材で建てた立派な神殿を求められたことはありませんでした。神様は家に住んでおられるお方ではなく、いつもイスラエルの民と共におられるからです。
ダビデの願い、それは決して悪いことではありません。安息と平安が与えられたその時に、神様のために何かをやりたいと言う思いだけでもとても素晴らしいと思います。しかし、それが神様のみこころであるとは分からないことです。そして本日の本文ではみこころではなかったのです。
そして神様は、神様がダビデのために一つの約束を与えてくださいます。それが本文の11節以降のダビデ契約です。そこで神様はダビデに「主があなたのために一つの家を造る」そして「彼が不義を行ったとき」も「わたしの恵みは、彼から取り去られることはない。」と約束してくださいます。そしてこの約束は直接的にはソロモンを通して、そして究極的には救い主イエス・キリストを通して成就されました。ダビデ契約に現れている大切なメッセージ、それは神様は恵みを持って導いてくださる、と言うことです。ご自分のご計画の中で恵みを持って神様の民を守り導いてくださる、と言うことです。その恵みはどのような状況の中でも決して取り去られないものです。この永遠に変わらない神様の約束を覚えたいと思います。恵みを持って約束を果たしてくださる神様に信頼して、どんな苦しみの中でも神様を仰ぎ見て歩んで行く者になりたいと思います。

7月23日(日)礼拝メッセージ要旨

 

「ヨハネの最後」           マタイの福音書14章1〜12節
バプテスマのヨハネはマタイの福音書11章で出て来ました。その時、ヨハネは牢屋の中にいまして、弟子たちをイエス様のところに送って質問をしました。その後、ヨハネはどのようになったか、が今日の本文に記されています。
1節に「ヘロデ」が出て来ますが、ヘロデはイエス様の噂を聞いて自分が殺してヨハネが死人の中からよみがえったのだ、と言っています。ですからヨハネがすでに殺されまして、ヘロデはその時のことを思い出して話しているのでした。
本文に出てくるヘロデは「ヘロデ大王」の息子です。そしてヘロディアは、ヘロデの異母兄弟のピリポの妻でありました。ところが、異母兄弟の妻を自分の妻にしたのです。そのため、元の妻とは離婚をもしたのです。それについてヨハネは「律法にかなっていない」とヘロデの罪を指摘し、言い続けていたのです。5節を見ますと、ヘロデはそのようなヨハネのことを殺したいを思っていましたが、民衆を恐れて殺すことはできず、ヨハネを捕らえて牢屋に閉じ込めていたのです。
そんな中でヘロデの誕生祝いの時のことでした。ヘロディアの娘が皆の前で踊ってヘロデを喜ばせました。それでヘロデは、ヘロディアの娘に「求める物は何でも与える」と誓って約束をしました。そして娘は、母のヘロディアに相談をしましたら「今ここで、バプテスマのヨハネの首を盆に載せて私に下さい」」と言わせました。それを聞いたヘロデは心を痛めながらも、皆の前で約束したため、その通りにヨハネの斬首を命令したのです。このようにしてバプテスマのヨハネは死にました。
ヨハネの働きはキリストの道を準備することでした。イエス様の宣教の初めの時、ヨハネはイエス様のことを多くの人々を紹介し説明しました。そして最後には自分の死を持って、イエス様の十字架での死を予め示したのです。本文の内容のような死に方、空しく思われるかも知れません。しかし、死で全てが終わる、ということではないことを覚えたいと思います。イエス様が十字架で死んで、その後よみがえりました。十字架での死と復活を通して永遠の命を勝ち取ってくださったのです。そしてその永遠の命は、ヨハネにも、信じる私たちにも与えられているのです。ですから、たとえ苦しみがあっても永遠の命への希望を喜びを持って救い主であるイエス・キリストに信頼し従って歩んで行きたいと思います。

7月9日(日)礼拝メッセージ要旨

 

「尊敬されないイエス様」          マタイの福音書13章53〜58節
マタイの福音書13章には、多くのたとえがあります。それらのたとえ話しを話し終えられたイエス様はご自分の郷里、ナザレに行かれました。そしてナザレの会堂で人々を教え始められました(53、54節)。今までイエス様はガリラヤの色々な地域を歩き回り、多くの奇跡を行われました。病人を癒してくださり、死んだ者を生き返らせたことをありました。そのようなイエス様の奇跡を行われた噂は、イエス様の郷里であるナザレまでも広がり、ナザレの人々もそれを聞いて知っていたと思います。
教え始められたイエス様、するとナザレの人々は驚いた(54節)、と書いてあります。噂だけを聞いていたナザレの人々は、イエス様からの素晴らしい教えを聞いて非常に驚いたのです。そして彼らは「この人は、こんな知恵と奇跡を行う力を どこから得たのだろう。」と言います。イエス様が教えだけではなく、力ある奇跡も行われたようです。知へに満ちた教えを聞き、素晴らしい力ある奇跡を行われることをみたナザレの人々は、今まで噂で聞いていたイエス様に関することが事実であることを知りました。
それを知った人々の反応とは、私たちがよく知っているマリヤの息子であるイエスではないか、そのイエスがこれらのものをみな、どこから得たのだろうか、ということでした。昔から知っていたあの人が、一体どこからこの素晴らしい力を得たのか、と不思議がっていたのです。確かにイエス様はナザレで30歳頃まで生活していました、町の人々はイエス様の幼い頃から見ていたと思います。イエス様の母はマリヤであり、4人の弟と妹たちがいることまでよく知っていることでした。しかし、そのようなことを良くしていたとして、本当にイエス様を分かっていることでしょうか。ナザレの人々はマリヤの息子であるイエスは良く知っていましたが、キリストであるイエス様は全く分からなかったのです。イエス様を人間として思い、キリストであるはずがない、と思ったことです。神であられるお方が自分たちのところに来られまして、共におられたということは夢にも思わなかったことです。
このようなナザレの人々の姿は、今まで13章で見て見たたとえの内容の実例になります。種蒔きのたとえ、お宝と真珠のたとえなど、福音を聞いても受け入れない、見ても見ることができない人々なのです。そして本来は私たちもナザレの人々と同じでした。福音を聞いても受け入れない、お宝としての価値を分からない人々でした。しかしそのような私たちに神様は恵みを与えて下さいました。福音を受け入れることができる恵み、福音の価値が分かる恵みを与えてくださったのです。イエス様を救い主として信じる信仰を与えてくださったのです。この恵みに感謝し、救いの喜びを多くの方々に証しして歩んで行きたいと思います。

7月2日(日)礼拝メッセージ要旨

 

「主を恐れ敬う」              Ⅱサムエル記 6章1〜11節
ダビデはついにイスラエル全体の王となりました。イスラエルは7年6ヶ月の間、南のユダ部族と北の11部族に分かれていまして、その間戦いもありました。ダビデがイスラエル全体の王になることによって統一したのですが、内部的には、まだ一つとなれなかったところもあったと思います。そのため、ダビデはエルサレムを攻め取ってイスラエル全体の中心となる首都とし、イスラエルが一つとなることを願いました。そして今日の本文では神の箱をエルサレムに運び入れますが、それを通して信仰においても一つとなり、ダビデの統治理念をみことばに置き、国全体がみことばに従うことで一つとなる、そのような国を立てていこうとした、と思われます。
2節を見ますとダビデはユダのバアラ(キルヤテ・エアリム、Ⅰサムエル記7:1)に行き、神の箱を新しい荷車に乗せました。そしてウザとアフヨが荷車を御した、と書いてあります。長い間、神の箱はユダのバアラ(キルヤテ・エアリム)に置かれていましたが、エルサレムに運び出すということでダビデもイスラエルの民の非常に喜ぶことでした(5節)。
ところが、その喜びは悲劇に変わりました。荷車を御していたウザが神の箱を掴んでしまい、それによってウザはその場で死んでしまったのです。この時、牛がよろめいたため、神の箱はひっくり返りそうになったので、ウザは神の箱が落ちることを防ぐために掴んだのです。しかし、そのようなウザについて、7節を見ますと「過ち(不敬の罪、第3版)」と書いてあります。
律法の規定によりますと、本来神の箱は触れてはならない、見てはならないものでした。ウザは神の箱が荷車から落ちることを守るために掴んだのですが、しかしそれは神様からの律法を破ったことになります。善意を持ってやったとしても触れてはならないと命じられたものを触れてしまったことになります。そのウザの行為は不敬の罪だったのです。
私たちは神様を恐れ敬い、そのみ教えを正しく心から守っているでしょうか。私たちはウザのようであって、守るところか破っています。それでもこのように神様の子とされたことは全てイエス・キリストのゆえです。私たちの全ての罪を背負って十字架につけられ、全ての罪を贖って下さった恵みのよって、私たちの全ての罪は赦され、神様の子とされたのです。この恵を心から感謝し、喜びを持って神様のみことばに従って歩んで行きたいと思います。