礼拝メッセージ要旨

5月21日(日)礼拝メッセージ要旨

 

「天の故郷」             ヘブル人への手紙 11章13〜16節
本日の本文には天の故郷に憧れていた人たちのことが書いてあります。そして彼らは信仰者として、この世で自分たちが帰るべき天の故郷を覚えて生きて行ったことを教えています。本文のみことばを通して天の故郷に憧れて生きて行った信仰者たちについて共に考えて見たいと思います。
まず、13節の最初を見ますと「これらの人たちはみな、信仰の人として死にました。」と書いてあります。「これらの人たち」とは、具体的には8節以降から出て来るアブラハムとイサクとヤコブのことです。そしてより広い意味では信仰の先陣たちのことです。そのような人々について「約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるか遠くに それを見て 喜び迎え、地上では 旅人であり、寄留者であることを 告白していました。」と説明しています。信仰の人として死にましたが、「約束のものを手に入れることはありませんでした」と書いてあります。約束のところか、この世での私たちの人生を考えて見ますと大変、そのものです。歳をとることによって体は弱くなり、病にかかることも多くなります。また苦しみに遭うこともただあります。それによって時には私たちの信仰は揺るがされ、本当に神様はおられるのか、という疑問さえも持つように持つようになるときがあります。
信仰者は、この世で約束のものを手に入れることはなかったとしてもはるか遠くに神様の約束を見て喜び迎えていたのです。今の人生がどんなに大変であって、どんなに大きな苦難や苦しみ、悩みなどがあっても、たとえ自分がどんなに大きな病気になったとしても、天の故郷に憧れていた信仰者たちは神様の約束をはるか遠くに見て喜び迎えていたのでした。即ち、その約束は必ず成し遂げられるという希望を持っていて生きていた、ということです。そして16節には、信仰者たちはもっと良い故郷、即ち天の故郷に憧れていたと書いてあります。
信仰によって行き、信仰の人として死ぬという生き方は、神様の恵みと愛によってその罪が赦され、御国に迎え入れられるという信仰と希望を持って生きていくことです。そのような信仰者が見上げるべきものは、まことの天の故郷です。この世のどんな状況の中でも私たちに与えてくださった神様の約束が完全に成し遂げられる天の故郷を覚えて、希望を持って歩んで行きたいと思います。

5月14日(日)礼拝メッセージ要旨

 

「良い地に蒔かれた種」           マタイの福音書13章1〜23節
今日からマタイの福音書13章に入りますが、このマタイの福音書13章には御国についてのたとえばなしが7つ書いてあります。その中で今日は一番最初の「種蒔きのたとえ」です。
先ずはたとえばなしについてですが、イエス様はたとえばなしで御国について説明する理由を教えてくださいます。イエス様は11節で「あなたがたには 天の御国の奥義を知ることが 許されていますが、あの人たちには 許されていません。」と語られます。ここでイエス様は天の御国の奥義を知ることが許されている人と、許されていない人と二つのグループに分かれていることをはっきりと語られます。即ち、イエス様のお話しを聞いて理解する人とそうでない人、悟る人とそうでない人がいる、ということです。そしてその違いは、神様が天の御国の奥義を知ることを許されたのか、そうでないかということです。ところが考えて見れば、本来人間は誰一人、自らの力で神様を知ることは出来ません。ですからいくら私たちに御国の奥義について教えてくださっても知ることはできません。しかし神様はある人々には「天の御国の奥義を知ること」と許して下さったのです。本来は全く分からないことですが、神様が知ることを許してくださったため、知ることが出来る。ということは、これは神様の恵みであるということができるのです。私たちがこのように教会に集まっていること、このように神様を知り、神様を信じていることも全て神様からの恵みであるのです。
そこでたとえばなしの内容です、種蒔く人はイエス様を、蒔かれる種は福音を、そして種が蒔かれるそれぞれの土は福音を聞く人々の心のことです。最初の道端というのは頑なな心を表します。蒔かれた種は硬い土のゆえに根を下ろすことが出来ない。それと同じように頑なな心によって福音を聞いても受け入れない人のことです。二つ目の岩地は福音を聞いて喜んで受け入れますが、土が薄いため根を張ることができない人のことです。三つ目の茨の中は、成長することを茨が防ぐことによって実を結ぶことが出来ない。そのようにこの世のものに心を奪われてしまい、信仰の実を結ぶことが出来ない人のことです。最後の四つ目は良い地ですが、この人はみことばを聞いて悟り、百倍、六十倍、三十倍の実を結びます。
私たちの本来の心は道端であり、岩地であり、茨の中のようなものでした。福音を聞いても受け入れない、成長出来ない、実を結ぶことが出来ないものだったのです。しかしそのような私たちに神様の恵みが与えられ、頑なな心が良い地に変えられ、福音を受け入れ信じるようになったのです。このように私たちは神様の恵みを頂いた者であることを覚えまして、百倍、六十倍、三十倍の実を結ぶことが出来るように、祈り求めて歩んで行きたいと思います。