礼拝メッセージ要旨

6月26日(日)礼拝メッセージ要旨

 

「罪を赦して下さるイエスさま」        マタイの福音書9章1〜8節
私たちの人生には不安や苦しみ、悲しみなどがあります。このようなことは、私たちが生きて行く中で大変大きなことです。しかし、私たちの人生で最も大きな問題は何でしょうか。それは罪によって神さまから離れているということです。本来は、神さまに造られ、神さまに愛され、神さまと共に交わりを持つ存在であるのに、罪によって神さまから離れてしまい、そのようなことが出来なくなりました。本日の本文にはそのような人間に罪の赦しを与えて下さるイエスさまの姿が記されています。
前回、イエスさまはガダラ地域の人々に「立ち去ってほしい」言われました。それで1節を見ますとイエスさまはご自分の町に帰られました。その町はカペナウムだと思いますが、そのカペナウムのある人の家でのことです。そこにはイエスさまと大勢の人々が集まっていましたが、人々が中風の人を床に寝かせたまま、イエスさまの前に運んで来ました。同じ内容のルカの福音書を見ますと、その家は入り口まで人でいっぱいになっていましたので、中風の人を運んで来た人々は家の屋根の瓦をはがしてイエスさまの前につりおろしたことでした。中風の人も彼を運んで来た人々も、中風という重い病が癒されることを心から願いここまで来たことだと思います。
ところが、その時にイエスさまが言われたことは「子よ、しっかりしなさい。あなたの罪は赦された」ということでした。多くの人々は意外なイエスさまの言葉に不思議がっていたと思いますが、しかしこの言葉こそ最も大切なことであります。イエスさまは中風の人の根本的な問題をご覧になり、中風という病を癒して下さることは勿論、罪の赦しをも与えて下さったのです。この罪の赦しは神さまのみに出来ることでありまして、この出来事を通してご自分の神としての罪を赦す権威を表して下さったことです。
以上のようにイエスさまは、私たちの罪を赦して下さるお方であります。私たちは色々な問題や苦しみ、悩みなどを持っていますが、最も根本的なことである罪の問題を解決して下るお方であります。私たちに「あなたの罪を赦されました」と、この世からは得られない安らぎと平安と喜びを与えて下さるイエスさまを覚えまして、そのお方を証しし、そのお方にのみ頼りつつ歩んで行きたいと思います。

6月12日(日)礼拝メッセージ要旨

 

「イエスさまに出会う祝福」          マタイの福音書8章28〜34節
本日の本文は、イエスさまが悪霊につかれた二人から悪霊を追い出してくださり、その苦しみから救ってくださる内容です。著者マタイは、8章で色々なイエスさまの行われた奇跡を記しています。ツャラアトにおかされた人、百人隊長のしもべ、そしてペテロのしゅうとめを癒して下さいました。そしてガリラヤ湖を渡る時は、自然をも治める御力を見せて下さいました。そして今日の本文においては霊的存在に対しても権威を持っておられるイエスさまのことが紹介されています。
悪霊につかれた二人は、墓場から出てきました。そしてその二人について「ひどく狂暴で、誰もその道を通れないほどであった」と書いてあります。同じ内容のマルコの福音書を見ますと、足かせや鎖で繋いでいてもそれを引きちぎり砕いてしまい、昼も夜も叫び続けていた、そして石で自分の体を傷つけていた、と書いてあります。二人の人は、悪霊によって普通の生活が出来なくなりました。住んでいるところも、彼らの姿も悪霊によって破壊され大変な日々と過ごしていたのです。
そして悪霊どもはイエスさまに「私たちを追い出そうとされるのでしたら、豚の群れの中に 送ってください」と懇願して言いました。それでイエスさまは「行け」と言われまして、悪霊どもは二人から出て行って豚に入りました。すると、その群れ全体が 崖を下って湖になだれ込み、水におぼれて死んだのです。この時、豚の数は、マルコの福音書によりますと二千匹ほどでしたが、その数が全部湖に落ちて溺れて死んでしまった、ということも悪霊の恐ろしい力を見せることだと思います。そのような悪霊が二人を支配していた、ということ。その二人にとってはどれほど大変なことだったでしょうか。この二人はイエスさまに出会い、その苦しみから救われたのです。その話しを聞いた町中の人々はイエスさまに出会うために出て来ました。しかし彼らはイエスさまに出会うと、立ち去ってほしいと懇願しました。いのちの主であり救い主であられるお方が自分たちの目の前におられるのに、そのお方を拒んだのです。
かつては、私たちも悪霊につかれた二人のように悪霊に従い、悪霊に支配されていました。しかし、イエスさまに出会い、その御力によって解放され神さまの子供とされたのです。この救いの喜びを覚えて感謝し私たちの愛する人々や大切な人々に救われた喜びを証しして行きたいと思います。

6月5日(日)礼拝メッセージ要旨

 

「主の御声に聞き従う」             Ⅰサムエル 12章7〜17節
Ⅰサムエル11章でイスラエルはアンモン人と戦いますが、その戦いで大勝利をえました。12部族から集まった33万の人々が、サウルの指揮の下で一つとなって戦い、自分たちより強いと思っていた相手に対して思わぬ勝利を得たことです。それでイスラエルの民は直ぐ、サウルを前イスラエルの王として立てました。これによってサウルは前イスラエルから認められた最初の王となりました。
このようにサウルが正式に王になった、ということはイスラエルに新しい変化が始まった、ということです。それは士師の時代は終わり、王様が治める時代が始まった、ということです。サムエルは最後の裁きつかさとなり、サウルは最初の王となります。本日の本文でサムエルは裁きつかさとしての最後の説教をしますが、その説教を通して神様の恵みに対する私たちの信仰について考えてみたいと思います。
まず、サムエルは1節〜6節で、イスラエルの民に自分の潔白について語ります。特に3節で、今までの私に何か不正や過ちがあったら訴えなさい、と語ります。最後の説教で何故このようなことを語るでしょうか。自分の潔白を確認するということはどのような意味があるでしょうか。それはイスラエルの民が王を求めた本音を確認するため、と言えます。イスラエルの民が王を求めた理由、それはサムエルの高齢化とサムエルの息子たちの行いが正しくなかったからでした。それを理由として新しく王を求めたということですが、本当の理由はそうではなかった、ということです。次に、サムエルは7節〜11節でイスラエルの歴史について語ります。神さまはイスラエルの民をエジプトから救い出してくださり、カナンの地に住まわせて下さいました。そして今まで、イスラエルの民を守り導いてくださり、安らかに住めるようにして下さいました。即ち、他の国々のように王はなかったですが、神さまがいつも共におられましてイスラエルを治め守り導いて下さいましたし、それには何の不足のなかった、ということです。
それなのにどうして王を求めるのか、ということです。イスラエルが王を求める本当の理由、それは神さまではなく、人間の王に頼りたいということでした。目に見えない神さまではなく、他の国々にように目に見える力強い人間の王が自分たちを守ってほしいということだったのです。そのような思いで王を求めるイスラエル、それでも神さまは彼らの願いを聞いてくださり、サウルを王として選んでくださったのです。ですから、自分たちの罪を悔い改めてこれからはただ主を恐れ、心を尽くして、誠実に主にのみ仕えなさい、と進めるサムエルです。このように憐れみ深い、恵み豊かな神さまを覚えたいと思います。いつも忍耐を持って私たちを守り導いてくださる神さまに感謝し、その神さまの御声にのみ聞き従うものになりたいと思います。