礼拝メッセージ要旨

5月31日(日)礼拝メッセージ要旨

 

「エステルの信仰」              エステル記4章11〜17節
エステル記はバビロン捕囚以降、異邦の地ペルシャに住んでいるユダヤ人の話しです。この時はすでにエルサレムへの帰還が許され、第1回目の帰還があった後です。一部の人々はエルサレムに帰りましたが、まだ多くの人々はペルシャに残っていました。その異邦の地に濃乗っているユダヤ人を神様がどのように守ってくださり、導いてくださるのかをエステル記を通して見ることができます。
このようなエステル記の中で、本日の本文、特に14節のモルデカイの言葉や16節のエステルの答えはとても有名で私たちのよく知っていることだと思います。ところがその前のエステルの答えを見ますと16節とは違う内容でした。本文の11節ですが、その11節ではモルデカイのユダヤ民族のためにアハシュエロス王の前に出ていてあわれみを求めてくれ、という願いに対して自分にはできないと返事をしています。王様に呼ばれてないのに、勝手に王様の前に出て行くことは死刑に処せられることであって、それは誰でも知っていると説明します。それに王妃ではありますが、エステルも30日間も王様に呼ばれてないと、即ち自分から王様の前に出るのはできない、ということでした。
モルデカイもそれは十分知っていたことだと思います。それでもモルデカイは神様が必ず助けてくださり、ユダヤ民族を救ってくださるということを確信していました。14節でのそのようなモルデカイの励ましを聞いたエステルも、その思いが変えられたと思います。そして16節でのように、モルデカイとユダヤ人たちに断食の祈りをお願いし、自分たちの断食して王様の前に出て行くことにします。そしてたとえそれによって自分の命が脅かされることになってもそうする、という確信に満ちた信仰を見せます。私たちもモルデカイの信仰とエステルの信仰を覚え、学びたいと思います。神様が私たちをご自分の民としてくださいました。神様の恵みと愛を知っている者として、福音を宣べ伝える者になりたいと思います。

5月3日(日)礼拝メッセージ要旨

 

「これを誇りなさい」       エレミヤ書9章23−24節
人は、他の人より優れたことがありましたらそれを誇りたがるところがあると思います。子どもたちの姿を見ていますと、本当に小さなことであってもそれが他の子よりよくやっていると思われるところがありますと自分がこれだけ出来るということを誇ります。それは子どもだけではなく大人になっても同じような思いをすることだと思います。そのような私たちに、神様は本日の本文を通して誇ってはならないことと誇るべきことについて教えて下さいます。
まず誇ってはならないことですが、23節で知恵ある者、力ある者、富ある者はその知恵と力と富を誇るな、と語られます。この知恵と力と富というのは、当時のイスラエルの民が誇っていたことの代表的なことだと思います。そして「誇る」という言葉は、頼る、または信頼するという意味もありまして、知恵や力、富に信頼していたということになります。即ち、イスラエルの民は自分の知恵、自分の力、自分の富を誇り、それらに頼っていたのです。自分たちが大変な状況に置かれた時、この知恵と力と富が自分たちを救ってくれるだろうと思い、これらのことを追い求め、頼るようになったことだと思います。その結果、神様のみことばに聞かない、それを悟ることが出来なくなったことだと思います。神様はエレミヤを通して預言して下さいますが、しかしその預言は聞かないで、自分の知恵を誇り、力と富に頼っていたことだと思います。
神様は、そのようなイスラエルの民に「誇る者は、ただ、これを誇れ。悟りを得て、わたしを知っていることを。」と語られます。ホセア書4章6節に「わたしの民は知識がないので滅ぼされる。」とあります。神様は預言者を通してご自分のことをイスラエルの民に教えて下さいましたが、しかし彼らはみことばを聞いても教えられても神様を知らなかったのです。ですから、神様はイスラエルの民に神様を正しく知り、それを誇り、その神様に頼り信頼しなさい、と語られることです。私たちは何を誇っているでしょうか。神様を知り、その神様を信じていること、そして神様からの恵みだけを誇る者になりたいと思います。