礼拝メッセージ要旨

3月22日(日)礼拝メッセージ要旨

 

「主にかなった者」                 創世記6章5〜12節
本日の本文はノアについてですが、本文を通してノアの生きていた時代とノアの姿を通して私たちに与えてくださる教えについて共の考えてみたいと思います。
まず、ノアの生きていた時代はどのような姿だったでしょうか。ノアの時代について聖書は次ように説明しています。「主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。」そして11節と12節では「地は、神の前に堕落し、地は、暴虐で満ちていた。神が地をご覧になると、実に、それは、堕落していた。すべての肉なるものが、地上でその道を乱していたからである。」と書いてあります。神様への信仰を捨てて偶像を拝み、互いに戦い争い、暴力や偽り、そして色々な不正なことが行われていたと思われます。その姿とは悪が増大し、人の心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾いていて、日常生活になっていた姿だと思われます。その時代についてイエス様は「洪水前の日々は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。」とも仰いました(マタイ24:38)。
そのような時代を生きていたノアはどうだったでしょうか。9節に「これはノアの歴史である。ノアは、正しい人であって、その時代にあっても、全き人であった。ノアは神とともに歩んだ。」と書いてあります。悪が増大し、人の心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾いていた時代においてもノアは、正しい人であって、全き人であって、ノアは神とともに歩んだのです。神様より洪水のことが知らされ、箱舟を完成するまで長い年月の間、周りからの嘲りや迫害で大変な生活をしたと思います。その中でもノアはいつも神様を共に歩んでのです。そしてそれはノアは主の心にかなっていたからでした。主の前に恵みを得たからだったのです。
今日を生きている私たちも大変な時代を信仰者として生きています。その私たちは主の心にかなった者であり、神様から恵みを頂いている者です。その恵みを覚えて神様のみこころに従って歩む者となりたいと思います。

3月15日(日)礼拝メッセージ要旨

 

「お一人の神様」              マタイの福音書23章1〜12節
本日の本文は律法学者とパリサイ人たちに対するイエス様からの厳しい批判の内容です。特にマタイの福音書23章はイエス様の「わざわいだ」という表現で良く知られている箇所でもあります。13節以降で7回以上出てきますが、イエス様は律法学者とパリサイ人たち、またはユダヤの指導者たちに対して節ごとに、そして段落ごとに「わざわいだ」と語っておられます。勿論、以前からイエス様はパリサイ人たちの偽善などについて批判し、正しい姿について教えてくださいましたが、この23章では彼らの罪について今までとは違って大変厳しく指摘しておられます。
まず、イエス様は「彼らがあなたがたに言うことはみな、行ない、守りなさい。」と仰います。そしてその理由として彼らはモーセの座を占めているからだと説明されます。これはパリサイ人たちがモーセの役割をしているということです。昔、モーセが神様よりみことばを頂き、それをイスラエルの民に伝え教えたように、ということです。そういう役割としてのパリサイ人たちの言うことは行い守るべきだ、ということだと思います。パリサイ人たちにそのような役割を任せてくださったのは神様です。ですから彼らが任された役割を十分に忠実に行うとき、それは守らなければならないことでしょう。
しかし、問題はパリサイ人たちがその役割に十分に、そして正しく行っていなかったことでした。彼らは言うだけは言って自分たちは実行しなかったのです。それでイエス様は「彼らの行ないをまねてはいけません。」と仰い、パリサイ人たちの実際の姿について説明して下さいます。
そして私たちが見上げるべきお方、学ぶべきお方について教えてくださいます。8節〜10節でイエス様はただお一人の教師であられる神様、お一人である父なる神様、お一人である指導者なるキリストについて語られます。聖書を通して私たちが歩むべき道を教えてくださり、その道へと導いてくださる神様、そして計り知れない愛をもって私たちを励ましてくださる父なる神様を覚えて歩んでいく者になりたいと思います。