礼拝メッセージ要旨

6月30日(日)礼拝メッセージ要旨

 

「わたしの食物とは」             ヨハネの福音書4章27〜34節
本日の本文は「このとき」と始まっていますが、それはイエス様とサマリヤの女性が話しをしているとき、ということです。エルサレムからガリラヤに行かれるイエス様は、サマリヤのスカルという町に着いたとき、ヤコブの井戸というところで休まれました。そのとき弟子たちは食物を買いに町に入った間に、イエス様はサマリヤの女性と話しをしておられましたが、そのとき、弟子たちが町から帰って来たことでした。
町から帰って来た弟子たちは、イエス様がサマリヤの女性と話しをしておられる姿を見て「不思議に思った」と書いてあります。新改訳2017では「驚いた」と翻訳していますが、当時は男女が会話をすることはタブー視されることでありまして、それもユダヤ人であるイエス様とサマリヤの女性を会話をするということは普通ではありませんでした。それで弟子たちは27節に書いてありますように「何を求めておられるのですか」とか「なぜ彼女と話しておられるのですか」とは言わなかったことでしたが、弟子たちにとっては驚くほど不思議な姿であったのです。
そして弟子たちはイエス様に食事を進めましたが、イエス様は弟子たちに「わたしには、あなたがたの知らない食物があります。」と言われました。それが理解出来ず互いに話ししている弟子たちにイエス様は「わたしを遣わした方のみこころを行ない、そのみわざを成し遂げることが、わたしの食物です。」と教えてくださいました。そしてヨハネ6:39によりますと、神様のみこころはイエス様に与えてくださったすべての者を、ひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。ですから、イエス様がサマリヤの女性に福音を伝えてくださったことも、また彼女の話しを聞いて町から出てきた多くのサマリヤ人たちに福音を伝えたことも、また十字架の出来事も神様のみこころなのです。私たちもイエス様に学び、主の食物を求め、福音を宣べ伝えるものになりたいと思います。

6月23日(日)礼拝メッセージ要旨

 

「子どものように」              ルカの福音書18章15〜17節
ルカの福音書18章には色々はたとえ話とイエス様の教えが出てきます。1〜8節には不正な裁判官とやもめのたとえ話」、9〜14節には「パリサイ人と取税人のたとえ話」がありまして、本日の本文では神の国を受け入れる者についての教えが出てきます。そして本文以降ではある役人との会話とイエス様の3回目の受難予告が出てきます。非常に多様な内容と教えが与えられていますが、一つの共通点がありましたら、それは何でしょうか。それは当時のユダヤ人たちが持っていた常識をひっくり返すような教えであるということです。たとえ話や教えの結論は、その時、話しを聞いていた人々や弟子たちの考え方をひっくり反すものでありました。それから、神様との関係は当時のユダヤ人たちは弟子たちが持っていた考え方や基準とは違うということがわかります。
やもめの弱さや貧しさが、そして取税人の罪深さが神様との関係に悪い景況を与えることではありませんでした。かえって、私たちの目には道徳的に非常に正しく神様の律法を徹底的に守っていたパリサイ人の姿が神様との関係には全く役に立たないものでありました。それは本文においても同じことが言えるところです。人々は、イエスにさわっていただこうとして幼子たちをみもとに連れて来ました。その姿を見た弟子たちは「それをしかった。」と書いてあります。弟子たちが、何故しかったのかは書いてないもので正確にはわかりませんが、おそらく弟子たちはそれが相応しくないと思ったと思います。しかし、イエス様は弟子たちに「子どもたちをわたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。」と、そして「子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、入ることはできません。」と語られました。この「子どものように」ということは、自分の弱さを覚えて神様に憐れみを求め、神様に頼り、神様を信頼することです。私たちも子どものように神様に信頼し、神様の教えに従って歩むものになりたいと思います。

6月16日(日)礼拝メッセージ要旨

 

「聖霊と信仰に満ちている者」        使徒の働き 11章19-26節
本日の本文は、アンテオケの教会の始まりと言われている箇所です。ペンテコステの後、エルサレム教会が始まりましたが、しかし使徒の働き10章までのエルサレム教会、又は福音伝道はユダヤ人を対象にしてエルサレムを中心として行なわれました。コルネリオに出会ったペテロは「ユダヤ人が外国人の仲間に入ったり、訪問したりすることは、律法にかなわない」と話しましたが、ユダヤ人にとって神様のみことばを異邦人に伝える、そして異邦人が救われるということは考えられないことでした。しかし、ペテロはコルネリオとの出会いを通して「どの国の人であっても、神を恐れかしこみ、正義を行なう人なら、神に受け入れられる。」と異邦人の救いについて新しく分かるようになりました。
そのような福音の広がりの中で、ルカはアンテオケの教会の始まりを「ステパノのことから起こった迫害によって散らされた人々は」と説明しています。使徒の働き7章でステパノが殉教し、エルサレムの教会に対する迫害は激しくなりました。それによって8章1節では、エルサレムの教会の信者たちがユダヤとサマリヤの諸地方に散らされたと書いてあります。そしてその時に散らされた信者たちは、もっと遠くへまで行きましたが、アンテオケまで至るようになったのです。そのアンテオケにキプロスとクレネ出身の信者たちも来るようになり、彼らはギリシャ語が話せることから、ギリシャ語を使う異邦人にも福音を伝えたのです。
その結果、大勢の人が信じて主に立ち返るようになりました。そしてこの知らせを聞いたエルサレムの教会は直ぐにバルナバをアンテオケに派遣しました。そのバルナバについてルカは「りっぱな人物で聖霊と信仰に満ちている人であった」と説明しています。彼は名前のように慰め深く良い人でした。そして聖霊に満ちていて伝道に熱心であり、信仰に満ちていて主の教えを守り実践する人でありました。私たちも聖霊と信仰に満ちていて証し出来る人生を生きて行きたいと思います。

6月9日(日)礼拝メッセージ要旨

 

「へりくだる者」               ルカの福音書18章9-14節
本日の本文では、1-8節までの不正な裁判官のたとえ話に続けて、パリサイ人と収税人のたとえ話をお話しくださいます。不正な裁判官のたとえ話でもそうでありましたが、イエス様はたとえ話を始められる前にたとえ話の対象についてはっきり教えてくださいます。9節をご覧になります「自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対して」たとえ話に出て来るパリサイ人のことをもって教えてくださることです。ですから、本日の本文はパリサイ人への教えというより、パリサイ人のように「自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たち」への教えになります。
先ず、このたとえ話には二人が出て来ますが、パリサイ人と収税人です。そしてこの二人は祈るために宮に上りますが、最初にパリサイ人の祈りが、その後収税人の祈りが出て来ます。その中でパリサイ人はこう祈りました。「神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。」神様に感謝しますと祈りますが、その祈りの内容からは感謝のところか、他人と自分の事を比べて自分のことを誇り話しているだけでした。そして「私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。」と自分の行いをも誇っています。
一方、収税人の祈りはどうでしょうか。収税人は「遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて」こう祈りました。「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。」と。この収税人の祈りには他の人のことは出て来ません。只、神様の御前での自分のことを覚えて、神様の憐れみがなければ救われない罪人であることを告白し、神様に憐れみを求めているのです。神様の御前に立つ者として、へりくだって神様の憐れみを求めなければならない罪人であること。そのような私たちの罪を赦してくださり、義と認めてくださる神様を覚えて信仰の道を歩んで行きたいと思います。

6月2日(日)礼拝メッセージ要旨

 

「最も大切な選択」                  イザヤ書8章1〜8節
本日の本文の内容は、南ユダのアハズ王の時の出来事です。イザヤ書7章1節によりますと、アハズ王の時、アラムと北イスラエルの連合軍が南ユダを攻撃して来ました。その時、南ユダは「王の心も民の心も、林の木々が風で揺らぐように動揺した」のです。その時に、神様はイザヤを通してアハズ王に励ましと力になるみことばを語って下さいましたが、しかしアハズ王は神様のみことばを拒みました。それでも神様はイザヤを通して「インマヌエル」と、神があなたがたとともにいてくださることをも語ってくださいました。しかしアハズ王は神様のみことばに従わず拒み、アッシリアに助けを求め頼りました。
そのような中で神様はもう一度イザヤを通して「マヘル・シャラル・ハシュ・バズ」ということを語ってくださいます。このことばは「分捕り品は速やかだ」、「戦利品は急速だ」なとの意味でありまして、アラムと北イスラエルがアッシリアによって滅ぼされることを教えてくださったことです。また、このことばをイザヤの息子の名前としてつけるようになされ、それは早くかつ確実に起こることをアハズ王や南ユダの人々に教えてくださったのです。これはこの世界の本当の支配者は神様であられることを教えてくださることです。強い国であったアッシリアさえも神様のみことば通りになる、それを通して南ユダがアッシリアにではなく、神様に戻ってくることを求めておられたことだと思います。
しかし、アハズ王は自分の愚かな選択を変えませんでした。6節以降をご覧になりますと「ゆるやかに流れるシロアハの水をないがしろにして」「あの強く水かさの多いユーフラの水」を選びました。「ゆるやかに流れるシロアハの水」とは神様の恵みや神様の助けを表し、「あの強く水かさの多いユーフラの水」とはアッシリアを表します。結局、アハズ王は神様のみことばをないがしろにしてアッシリアを選択し、アッシリアに頼るということです。私たちはどうでしょうか。いつも神様のみことばに従う道を選び、その道を喜び歩んでいることでしょうか。ゆるやかに流れるシロアハの水のような神様の恵みと覚え、神様の御心に従う道を選び歩み続ける者になりたいと思います。