礼拝メッセージ要旨

2月24日(日)礼拝メッセージ要旨 マイケル・カーター先生

 

「新しい人をきたのです」       コロサイ人への手紙3章1−14節
心の真の変化とは外側の環境から来るものではありません。ただ神様から来るものです。神様は聖霊の力によって私たちの心に触れられ心の内側の変化が起こるのを可能にしてくださいます。これをキリスト教の言葉で「聖化」と言います。この聖化は私たちの全部の性質に影響を与えます。これは一生かかるもので、ただ神への信仰を通してできることです。コロサイ人の手紙のこの箇所はこの聖化への変化と信仰者の新しい生き方についていくつかの重要な点を私たちに教えています。
まずは、心の真の変化は新しい性質からくることを教えています。信仰者になるとき、瞬時に性質の変化が起こります。キリストは私たちの中に今、生きており、私たちの性質は自分の思うように生きていた者から神に従う者へと変えられます。次に、心の真の変化はあなたの偶像を知ることから来ることを教えています。自分の偶像が何であるかを知るとき、それを持って神様のところへ行き、赦しを求め、悔い改め、キリストのために生き、キリストにアイデンティティを持つことです。
最後に、心の真の変化は福音から来ることを教えています。私たちの変化したい、キリストに生きたいという願望は、キリストが私たちにしてくださったことに直接、応えています。自分を気分よくさせるために哀れみや優しさを持つべきではありません。神が一人子であるキリストを私たちの罪を赦すために十字架の死に送られたとき哀れんでくださったので、私たちも哀れみを持つべきなのです。クリスチャン生活は毎日が変化の連続です。聖化はとても大変な道のりですが、今の私たちをそのままほっておかれず、もっと私たちがキリストに似るように成長するのを見たいと思っておられる神様を知っていることで私たちは祝福されているのです。

2月17日(日)礼拝メッセージ要旨

 

「聖霊に満たされて」              使徒の働き4章5-12節
本日の本文はペテロとヨハネがユダヤの指導者たちより尋問されることから始まります。そこには「民の指導者、長老、学者たち」そして大祭司の一族が集まっていました。ここに集まっていた人々は、当時のユダヤの最高議会であるサンヘドリンのメンバーでした。この出来事の発端は3章からでありまして、3章でペテロとヨハネは神殿の美しい門にいた生まれつきの足のなえた男を癒したことがありました。その話しを聞いた多くの人々はペテロとヨハネのところに集まり、その時ペテロが多くの人々に福音を伝えました。その内容やイエス様の死と復活、そしてそのイエス様がメシヤであるということでした。それを聞いていたユダヤの指導者たちはペテロとヨハネを捕まえ、何故そのようなことをしたのか、尋問をしていたわけです。
ユダヤの指導者たちの前に立たされたペテロとヨハネ、二人は数カ月前のイエス様のことを思い出して彼らを恐れたかもしれません。何故なら、ペテロとヨハネの目の前に立っている人々によってイエス様は十字架につけられ死なれたからです。そしてその時、ペテロとヨハネは勿論、イエス様の弟子たちは逃げてしまいました。イエス様の事も、そしてその時の自分たちの姿も、ペテロとヨハネは良く覚えていたと思います。そういうユダヤの指導者たちを前にしてペテロとヨハネはどのように答えた事でしょうか。それはイエス様が捕まえる時とは全く違うものでした。今日の本文では、ペテロとヨハネはユダヤの指導者たちに、彼らの罪を指摘し、イエス様の死と復活、そしてイエス様はメシヤであることをはっきり語ることが出来ました。
そしてそのようなペテロとヨハネについて本文では「聖霊に満たされて」いたと説明しています。聖霊に満たされていたペテロとヨハネはユダヤの指導者たちを恐れず、大胆に福音を語ることが出来たのです。私たちの人生にも様々な苦難や試練がありますが、しかし聖霊に満たされ導かれて、試練を乗り越えることが出来るように祈り求めたいと思います。

2月10日(日)礼拝メッセージ要旨

 

「ぶどう園の主人の恵み」           マタイの福音書20章1-16節
本日の本文を通して、私たちは限りない神の愛と深い憐れみを見ることが出来ます。たとえ話の中にはぶどう園の主人が出て来ますが、彼は労務者を雇うために朝早く出て行きます。そして労務者たちと一日一デナリの約束ができると、彼らをぶどう園に行かせました。そして午前9時ごろ、12時ごろ、午後3時ごろ、そして最後に5時ごろにも出て行って労務者たちを雇いぶどう園に行かせました。そして夕方になり、その日の仕事が終わりますと監督を呼んで労務者たちに賃金を払うようにさせますが、ぶどう園に最後に入った労務者から払い始めて、朝早くから働き始めた労務者まで一デナリずつ同じく払いました。朝早く働き始めた労務者たちは一時間しか働いていない労務者たちが一デナリを貰う事を見て自分たちはもっと多く貰えると持っていました。しかし自分たちも同じく一デナリを貰うとぶどう園の主人に文句を言いました。すると、ぶどう園の主人は彼らに「ただ私としては、この最後の人にも、あなたと同じだけ上げたいのです。」と答えました。
ぶどう園の主人は5回も出て行き、労務者を雇い、ぶどう園に入るようにしてあげました。その中で最後の午後5時ごろというのは、仕事が終わるまで1時間も残っていなかった時です。そうであるにも関わらず、労務者を雇いぶどう園に送った、それも一時間も働いていない人々にも一デナリをあげたという事を考えて見ますと、ぶどう園の主人は収穫より労務者たちにもっと大きな関心を持っていたことが分かります。そしてそのようなぶどう園の主人のこころは「ただ私としては、この最後の人にも、あなたと同じだけ上げたいのです。」という答えからも良く分かることです。雇われず何もしないで市場に立っている人々を憐れんで何回も市場に出て行って、彼らを雇い働かせ賃金を与えた、それがぶどう園のこころでした。そしてそれは神様の私たちに対するみこころでもあるでしょう。私たちを憐れんで下さり、恵みを与える下さる神様を覚えて感謝を持って生きて行きたいと思います。

2月3日(日)礼拝メッセージ要旨

 

「神の教え通りに」               列王記第二 5章8-16節
アラムの将軍であるナアマンは、王様にも重んじられ尊敬される人物でした。戦争を勝利に導いた勇士でもあって、アラムの多くの人々は彼を尊敬していたと考えられます。しかし、ナアマンはチャラアトという大変な病気を持っていました。神様は、そのようなナアマンを不思議な方法でイスラエルに、そして預言者エリシャにまで導いて下さいました。ナアマンにとってチャラアトは大変な病気でしたが、しかしそれは神様に用いられてナアマンをエリシャにまで来ることが出来るようにしたのです。
神様の不思議な導きによってエリシャのところに着いたナアマンでしたが、ナアマンには、まだアラムの将軍としてのプライドが高かったです。この時のナアマンの姿は大変な病気を持っている病人ではありませんでした。この時のナアマンは「銀十タラントと、金六千シェケルと、晴れ着十着とを持って」いて、さらに馬と戦車を持って来まして、アラムの将軍そのものでした。そのようなナアマンに対してエリシャは出ても来ないで、使いをやって「ヨルダン川へ行って七たびあなたの身を洗いなさい。そうすれば、あなたのからだが元どおりになってきよくなります。」と言うだけでした。それを聞いたナアマンは怒り、そのままアラムに帰ろうとしました。
ところが、その帰路の途中でナアマンの僕たちの話しを聞いてエリシャが話しした通りに従うことにしました。そしてヨルダン川で7回洗った時、ナアマンの病気は治り彼の体はきよくなったのです。それを経験したナアマンはエリシャの話し通りに従った時、神様が自分の病気を癒して下さったということを知り、真の神様を信じるようになったのです。神様はナアマンの病気を通して、彼の体の癒しは勿論、彼の魂までも癒し救ってくださったのです。大変な病気や人生の試練の中で、先ず私たちは神様を覚えたいと思います。そしてその御前にひれ伏して神様の教え通りに従い歩む者になりたいと思います。