礼拝メッセージ要旨

8月26日(日)礼拝メッセージ要旨

 

「辱められることの恵み」            使徒の働き5章33〜42節
 本日の本文には、福音を伝えたことによって殺される危機に置かれた使徒たちの姿が出てきます。使徒たちは、ペンテコステの出来事の後、宮でイエス様がキリストであることを教え、病人を癒したり悪霊を追い払ったりしました。それに対するサンヘドリン議会の対応は、最初は軽い方でしたが、それも段々大変なものになりました。そんな中で、本日の本文は使徒たちが議会において尋問される場面ですが、使徒たちの答弁を聞いていた議会は、怒り狂って使徒たちを殺そうとまで思ったのです。
 その時、議会の中にいたガマリエルという人物が立ち、使徒たちを外に出させて議会の方にゆっくり考えてみた方が良いのではないか、という提案をしました。ガマリエルは、すべての人に尊敬されている律法学者でパリサイ人でした(34節)。彼は昔のパウロの先生でもありまして、当時イスラエルの中で最も尊敬される人物でした。そのようなガマリエルはチェダとガリラヤ人のユダという過去の二人の実例を取り上げて使徒たちのことから手を引き、放っておきなさい、ということを提案します。彼の意見は、もし、今の騒ぎが人からのものだったら自滅してしまい、神様からのものだったら彼らを滅ぼすことはできない、と話します。
 このようなガマリエル提案は正しいこととは思えないことですが、神様はそれを用いてくださり、議会から使徒たちが釈放されるようにしてくださいます。その釈放される際に、使徒たちはムチで打たれ、イエスの名によって語ってはならない、と言われます。しかし使徒たちはそんな大変なことをも喜びならが帰り、再び、毎日、イエス様がキリストであることを宣べ伝え続けました。福音を伝えること、聖書の教えや十字架の出来事を他の人々に伝えることは大変難しいことです。それを伝えた時、変えて来る反応が冷たいことでしたら、その後はもっと伝えづらくなります。しかし、福音を伝えることは私たちに与えられた恵みです。たとえ、辱められることがあるとしても助けてくださる神様のことを覚えて、福音を語り続ける者になりたいと思います。

8月19日(日)礼拝メッセージ要旨

 

「助けてくださる神様」             使徒の働き5章17-32節
 イエス様が天に上られた後、一か所に集まっていた弟子たちは聖霊に満たされる不思議な経験をします。そしてその後、聖霊の力によって多くの弟子たちは人々に福音を伝え、色々な奇跡を行ないます。ペテロの説教によってある時は三千人の人々が、ある時は五千人の人々が悔い改め、洗礼を受け、教会に加わります。また、使徒たちはイエス・キリストの名によって病人を癒したりしますが、そのような彼らの噂は広く広がり始めました。当時、多くの人々は彼らを尊敬していました(使徒5:13)。そしてその時の姿をルカは「エルサレムの付近の町々から、大ぜいの人が、病人や、汚れた霊に苦しめられている人などを連れて集まって来たが、その全部がいやされた」と説明しています(使徒5:16)。
 そんな中で使徒たちの姿を喜ばない人々がいました。本文の17節に「そこで、大祭司とその仲間たち全部、すなわちサドカイ派の者はみな、ねたみに燃えて立ち上がり」とありますが、等々、使徒たちを捕らえ、留置場に入れてしまいました。今までエルサレムのクリスチャンは多くの人々からは尊敬され、色々な奇跡を行ない、益々増え続けて来ました。しかし、大祭司とその仲間たちによって使徒たちが牢屋に入れられたという大変な状況に置かれるようになったのです。
 その時、神様は神の民を不思議な方法で助け守り、導いて下さいます。先ず、神様は不思議な方法で使徒たちを牢屋から連れ出してくださいました。留置場には門の前に番人がいましたが、彼らが知らない内に主の使いによって外に連れ出されました。また、神様は彼らに聖霊を与えてくださり、使徒たちを助け導いてくださいます。使徒たちは再び大祭司たちの前に連れて来られますが、その時、彼らに対して「人に従うより、神に従うべきです。」と答え、大胆に福音を伝えました。このような姿は聖霊が助けて下さっているからです。神様はご自分に従おうとする人々をある時は不思議な力で助けて下さり、聖霊を通して守り導いて下さいます。私たちもどんな状況の中でも、そのような神様を信じ、神様に従う道を選んで歩んで行く者になりたいと思います。

8月12日(日)礼拝メッセージ要旨

 

「キリストについて行く」           ルカの福音書14章28-35節
 本日の本文は、前回のる会の福音書14章25節以降で教えられたイエス様の弟子になることへの教えの続きです。14章26節では自分の家族と自分のいのちまでも憎まない者は、イエス様の弟子になることが出来ないということが、そして27節では自分の十字架を負って付いて来ない者も、やはりイエス様の弟子になることが出来ない、と言うことが言われました。28節以降はその三つ目になりますが、そこにおいてイエス様は例え話しをしてくださってイエス様の弟子になることについて教えてくださいます。
 先ず、イエス様は塔を築こうとする時の話してしてくださいます。その話しではある事を始める時は、始める前に費用などを十分に考えた上で始めるということです。そうしないで何も考えずに始めたら途中でやめざるを得なくなり、それでは周りから笑われる者になるしかない、ということです。そして二つ目の例え話しは、戦いを交えようとする時の話しです。その時に敵の力、兵士の数などを十分に考えて勝ち目があるかどうかを決めるべきだ、ということです。この二つの例え話しの中で共通に強調されていることは「まずすわって、十分に考える」ということです。ですから、イエス様の弟子になる者は、弟子になることを十分に考えなければならないということです。その道がどれほど大変なのか、どれほど大きな犠牲を払わなければならないのか、そして弟子になる者はいつも悪魔から攻められることになることをも十分に考えてイエス様について行かなければならないということです。そのことをよく考えて、そしてどんな場合においても、何よりも誰よりもイエス様を愛する者、イエス様を第一に大事に思う者になれば、その人は塩気を保ち、良い塩として用いられるようになります。
 私たちはイエス様の弟子としてクリスチャンとして、イエス様について行かなければなりません。その時、先に歩まれたイエス様のお姿を覚えて、そのお方に学んで、その足跡をついて歩んで行く者になりたいと思います。

8月05日(日)礼拝メッセージ要旨

 

「神のみこころより離れないように」         士師記18章7-13節
 本日の本文は、イスラエルの12部族の中でダン部族の内容です。7節の初めに「五人の者は進んで行って、ライシュに着き、そこの住民を見る」とありますが、これはダン部族から5名の斥候を送ったことです。18章1節に「ダン人の部族は、自分たちの住む相続地を求めていた。イスラエルの諸部族の中にあって、相続地はその時まで彼らに割り当てられていなかったからである。」という理由からのことでした。しかし、ヨシュア記19章41節以降によりますと、ダン部族にも同じく割り当てられます。ところが、ダン部族はその地を自分たちのものにすることが出来ず、神様によっての割り当て地ではなく、新しい土地を探そうとして5名の斥候を送ったことでありました。
 そしてその5人の人々はエフライムの山地にあるミカの家で若いレビ人に出会うようになります。彼がミカによって雇われてミカの家で祭司になったことを知った彼らは、彼に「どうぞ、神に伺ってください。私たちのしているこの旅が、成功するかどうかを知りたいのです。」と頼みました。そしてその若いレビ人は「安心して行きなさい。あなたがたのしている旅は、主が認めておられます。」と答えます。それを聞いた5名の斥候は、ガリラヤの北側にある「ライシュ」という町に付き、その町を探っていたことでした。その後、彼らは自分たちの家に帰り、ダン部族の人々に「ぐずぐずせずに進んで行って、あの地を占領しよう。」と、そして「神はそれをあなたがたの手に渡しておられる。」とも報告し、ライシュに攻め上ることを強く主張します。そのような彼らの心には、神様のみこころは何か、神様が良しとされることは何か、という思いはありませんでした。ただ、自分たちのしたいままに、自分たちが願うままに行なって行くだけなのです。しかし、私たちがすべきことは神様のみこころに従うことです。どんなに大変なことがあるとしても、神の子らしく、神様が教えて下さるままに、導いて下さるままに従って歩んで行く者になりたいと思います。