礼拝メッセージ要旨

3月22日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「いのちの源」           エペソ人への手紙 1章20-23節

パウロは前の段落でエペソ教会の聖徒たちがもっと神様を知るようにと祈ります。知恵と啓示の御霊が彼らに与えられて神様を知るようになり、心も目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものであり、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、そして神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神様のすぐれた力がどんなに偉大なものであるか、それを知るようにと祈りました。それに続く20-23節は、それがどんなものであるのかについて、例として説明している内容です。

この20-23節には、二つが取り上げられていますが、一つはイエス・キリストの復活と昇天であり、もう一つは教会です。神様がご自身の力をどのように現わされたのか。将来、聖徒たちに与えてくださる望みとは、何か。その受け継ぐものがどんなに栄光に富んでいるものが。神様の力をどのようにして分かることができるのか。そういうことの説明が、キリストの復活と昇天、そして教会を通して現わされているのです。つまり、あなたがたがどれ程素晴らしい祝福を頂いていて、神様がどれ程すぐれた力を持っておられるお方であるのか、それはキリストの復活と教会を見れば確実に知ることができるということです。

私たちは、神様の愛をどうやって知るごとが出来るのでしょうか。それは、キリストの十字架での死を通して知ることができると思います。キリストの十字架は、神様の愛を見せてくれる最も確実な証しです。同じく、キリストの復活と昇天は、神様の全能の力を見せてくれる最も確実な証しなのです。私たちがキリストの十字架の苦しみを通して神様の大いなる愛を知っていれば、同じようにキリストの復活と昇天を通して神様の全能の力をも知ることができます。私たちがどんなに弱い者であるとしても、まるで死者のようなものであるとしても、神様の全能の力によって、日々生かされて生きて行く者になりたいと思います。

3月15日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「はっきり見えるように」     エペソ人への手紙1章17-19節

本日の聖書を見ますと「心の目がはっきり見えるように」とありますが、それは霊的真理を悟ることが出来る洞察力を意味します。人の目には見えませんが、聖霊の導きによって神様を見あげる事が出来るように、そして神様のみこころが分かるようにして下さって、神様が導いて下さる道を見ることが出来る力、これが心の目がはっきり見えるようになる事であると言えるでしょう。最初に、パウロはエペソ教会の信者たちに聖霊が与えられて、彼らがもっと成長し、より神様を知る事が出来るようにと求めました。そして今日の本文では、その続きに心の目がはっきり見えるようにと祈り求めています。それは、彼らの目がはっきり見えるようになって、神様のみ業を見る事が出来るようにと願って祈った事であります。

続けてパウロは、心の目がはっきり見えるようになって、次の三つのことが「どのようなものであるか」を知ることが出来るように祈ります。その一つ目は、神の召しによって与えられる望みがどのようなものかという事です。召しという事は過去の事と、望みをいう事は将来のことが私たちの目がはっきり見えるようになった時、私たちは信仰の過去と将来をともに覚える事が出来ます。二つ目は、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものかということです。それは、聖徒たちが受け継ぐものは、決して朽ちるものや錆びるものではなく、栄光に富んでいるものでるという希望と慰めを与えて下さいます。最後の三つ目は、神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかという事です。

知恵と啓示の御霊が与えられて神を知る事ができて、それによって私たちの目がはっきり見えるように、と願います。そして、私たちの心の目がはっきり見えるようになった時、この三つ、神の召しによって与えられる望み、聖徒の受け継ぐものの栄光の富、神のすぐれた力の偉大さが分かるように、祈りつつ歩む事が出来るようにと願います。

3月8日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「知恵を啓示の御霊」         エペソ人への手紙1章15-19節

エペソ教会の聖徒たちへのパウロの心は、まるで親が自分の子どもを思うような愛情深いものであったと思われます。そしてそのような聖徒たちへ愛は、彼らの為の祈りになりました。パウロはエペソ教会の聖徒たちに対する愛の心を、祈りを通して実践したのです。このようなパウロの祈りの内容が具体的に17-19節に書いてありますが、その最初の祈りが17節の「神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。」という事です。それは信仰と愛の状態から更に霊的に成長することを願っていたからです。

パウロは知恵と啓示の御霊を通して、エペソ教会の聖徒たちが神をもっと知る為にと祈っています。ここで「知る」という言葉は、経験的に分かるという意味です。そして啓示とは、神様がご自身について、そして神様のご計画とみこころのようなもの私たちに教えて下さることです。本質的に堕落した人間は自らの力では神を知る事が出来ません。ところが、人間が神様知ることが出来るのは、神様が私たちにご自身を教えて下さったからです。このように神様が私たちに教えてくださるもの、教えてくださる奥義、これが啓示なのです。そして知恵とは、以前にも説明した事がありますが、神様が教えてくださる啓示を私たちが知ることが出来る、または受け入れることが出来る力であります。即ち、聖霊は知恵と啓示の御霊であって、神様が私たちに与えてくださる啓示のみことばを悟ることが出来る知恵を与えてくださいます。私たちに、このような神様からの知恵があるように、と願います。神様が与えてくださる知恵を持って、自分の周りの環境を見ることが出来ますようにと願います。

私たちも、神様に対するしっかりした信仰とすべての聖徒たちに対する愛を持ちたいと思います。そしていつも知恵と啓示の御霊に助けられて、神様を知る事が出来るように、自分の為に、そして周りの人々の為に祈る人々になりたいと思います。

3月1日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「しるしと不思議」           ヨハネの福音書4章43‐54節

人間は見ることや聞く事などの感覚を通して何かを知ることに、限界をもっています。幾ら視力が良いと言っても目には見えない小さいものがあります。同じように耳があっても聞く事ができないものもあります。人間の認識の能力には明確な限界があるのです。自分が見ることができないし、聞く事ができない、そして感じることができない世界があるのです。そうであるにもかかわらず、多くの人々は自分の感覚を通して認識できる世界だけを認めようとするところがあります。イエス様は、本日のみことばを通して、そういうものがすべてではない事を教えてくださり、私たちを信仰に導いてくださいます。

イエス様は、ガリラヤに行く途中にサマリヤ地域によって福音を伝えました。そしてイエス様のことばを聞いて信じたサマリヤ人の願いに応じて、サマリヤに二日間泊って本来の目的地であったガリラヤにお向いになりました。そしてイエス様が水をぶどう酒に変えたガリラヤのカナというところに着いた時、カペナウムからきた王室の役員がイエス様のところにやって来ました。彼は、死にかかっている息子を癒してくださることを願って自分と一緒にカペナウムに行くように求めました。しかし、イエス様は彼に対して「しるしと不思議を見ない限り、決して信じない」と語られました。一方、イエス様がそう語られながら彼の息子が直っているとも語ってくださいました。その言葉を聞いた役員は、イエス様のことばを信じて家に帰りました。そして、帰る途中で、家からものに出会って息子が直った事を聞いてその時間を聞いて見たら、イエス様のことばがあった時間を同じだった事を知り、彼と家の者がみな信じるようになったのです。

目に見えるしるしだけを求めることは、真の信仰ではないと聖書は教えています。しるしは人間の目を引いても、完全な信仰を与えることはできません。目に見えるしるしを越えて、イエス様のことばを信じて従うことができるのが信仰をもつ者になりたいと思います。

2月22日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「クリスチャンの試金石」      エペソ人への手紙1章15-19節

パウロは牢獄の中に閉じ込められていても、神様が与えてくださる霊的祝福によって感謝し喜びをもって神様を賛美することができました。そしてその感謝と喜びによって、現実は牢獄の中であっても、神様への賛美が満ち溢れる生活をすることができたと思います。そしてパウロは、エペソ教会の聖徒などのように、自分が知っている聖徒たち、あるいは彼らの様子を伝えて聞くことによって、たとえ牢獄の中に閉じ込められた生活であっても、喜びをもって神様に感謝をささげることができたということです。

本日の聖書によると、パウロはエペソ教会の聖徒たちの信仰と愛のゆえに神様に感謝をささげることができました。それは、パウロがエペソ教会の聖徒たちを思う時に一番大切にしていたのは、他でもない、信仰と愛であったというです。即ち、パウロがエペソ教会の聖徒たちによって神様に感謝をささげることが出来たのは、彼らの中にある「主イエスに対する信仰」と「すべての聖徒たちに対する愛」であるということです。この信仰と愛は、まるで試金石なようなものであって、クリスチャンがクリスチャンであることの大切な判断基準になります。

特に、「主イエスに対する信仰」と言います。それは、信仰が主イエス・キリストの中にあるということです。これは最も大切なことであり、基督教信仰の本質であり、一番中心的な問題です。私たちの信仰の対象が主イエスであることをはっきり覚えなければなりません。そして、「すべての聖徒に対する愛」と言います。この二つは私たちがクリスチャンであるということの印です。どんな人も主イエスを信じなくてはクリスチャンになる事はできなし、クリスチャン出なかれは隣人を真に愛する事は出来ません。信仰と愛を、試金石のように思って、自分の信仰が主イエスに対するものなのか、そしてすべての聖徒に対して愛ももっているのは、自分自身を振り替えて見ましょう。

2月15日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「約束の聖霊」             エペソ人への手紙1章11-14節

エペソ人への手紙1章3-14節は一つの長い文書になっていて、神様の恵みについて賛美です。その最後になる本日の本文では、霊的祝福が聖霊の働きによって、ユダヤ人にも異邦人にも区別なく、イエス・キリストの中にいるすべての聖徒たちに与えられていることを説明しています。特にパウロは13節と14節で聖霊が私たちの信仰生活においてどのような助けを与えてくださるのかについて具体的に説明しています。

パウロは3-12節まで、父なる神様とみ子キリストの救いの働きについて説明しました。ところが、私たち人間は福音を聞いてもそれを悟ることも出来ません。神様がイエス・キリストを通して救いの道を与えて下さいましたが、私たちは自らの力ではその道を歩くことも出来ません。このような私たちの状態を助けて下さって、神様について、そしてイエス様について分かるようにして下さるのが聖霊なのです。私たちは聖霊を通して福音を聞いた時、その福音の本来の意味にたどりつく事ができ、ただ聖霊のみを通して福音が真理である事を悟り、確信して受け入れることが出来ます。

このような聖霊について「約束の聖霊」と言っています。この意味は二つに理解する事が出来ますが、先ずは「聖霊を送って下さる」というイエス様の約束が、イエス様が天に昇られた後、その約束通りに成就されたという意味です。そしてもう一つは、悔い改めて神様に立ち返るすべての人々に聖霊を与えて下さるという約束をしてくださったので、約束の聖霊ということです。

神様は、その約束の聖霊をもって私たちに証印を押して下さいます。また、私たちが御国を受け継ぐことの保証として下さいます。それは聖霊が私たちの救いを確実なものにしてくださるということです。聖霊は私たちを救いに導いてくださり、私たちが一つになる事が出来るようにしてくださいます。この聖霊によって私たちが一つになり、助け合いながら、パウロが獄中でも喜びを持って賛美する事が出来たように、いつも神様を賛美する者になりたいと思います。

2月8日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「この方にあって」           エペソ人への手紙1章11-14節

前回、私たちは「天にあるすべての霊的祝福」について考えて見ました。それは神様の選びとご計画、贖いと罪の赦し、あらゆる知恵と思慮深さでありました。神様がこの世を造られる前から私たちをお選びになることを定めておられ、そのご計画がイエス・キリストの贖いによって実現され、私たちにあらゆる知恵と思慮深さを与えて下さって分かるようにしてくださったということです。本日の本文も続けて、パウロは神様のご計画とあらかじめ定めておられたことが成し遂げられることについて説明していますが、霊的祝福がどのようにユダヤ人と異邦人に与えられたのかについて語っています。

まず、パウロは「私たちは御国を受け継ぐ者ともなりました」と言います。罪人である私たちは、そのままであれば御国に入ることができない存在です。ところが、そんな者であるのに「御国を受け継ぐ者とも」なったということなので、どれほど励ましになるみことばなのかと思います。私たちのこの世での人生が苦しみや辛い事、そして失敗だらけのものであるとしても、神様によって御国を受け継ぐ者になったということです。それも神様があらかじめ定められたと言います。そして、その目的は「神の栄光をほめたたえるため」なのです。それを定められた方も、計画して実現される方も、そして目的も神様であります。クリスチャンの人生は、神様がすべてご計画の中で導いて下さるという事をしっかりと覚えたいと思います。

そして、このような神様のお選びとご計画は、ユダヤ人だけにではなく、異邦人にも与えられていると言います。当時のユダヤ人と異邦人というのは、水と油とのような関係であって、間に越えることのできない隔てがありました。そのような関係が、キリストにあって「私たち」という一つとなり、共に神様の栄光がほめたたえるためという一つの目的に集められたという事を覚えたいと思います。キリストに望みを置いて、ご自分の目的に従って私たちを選んで下さった神様をほめたたえる、そのお方に感謝する者になりたいと思います。

2月1日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「水がめを満たしなさい」           ヨハネの福音書2章1-11節

聖書を見ますと、イエス様がおられるところでは小さい問題であろうが大きい問題であろうが、それが解決されました。今日の本文でもイエス様によって問題が解決された事を見る事が出来ます。

イエス様は弟子たちとともにガリラヤのカナという町の婚礼に招かれて行かれました。そこには母のマリヤもいましたが、婚礼の宴会の途中にぶどう酒がなくなり、マリヤはそれをイエス様に話しました。その後、イエス様は、母マリヤに不思議な事を言って、水をぶどう酒に変える奇跡を行います。これはイエス様が行われた最初のしるしと書かれていますが、この出来事の中に含まれている教えは何か、考えて見たいと思います。

一つ目は「足りない事を知った時、神様に求めなければならない」という事です。マリヤは、ぶどう酒がなくなった事を知って、それをイエス様に話しました。そして、「あの方が言われることを、何でもしてあげなさい」と手伝いの人たちに言いましたが、それはイエス様がその問題を解決して下さるという確信をもっていたからです。

二つ目は、どんなに理解できないことであっても、そのまま従わなければならないということです。マリヤに命じられた手伝いの人たちは、イエス様に言われた通りに水がめに水を満たした時、水がぶどう酒に変わる奇跡を見ることが出来ました。イエス様の話しを聞いた手伝いのたちは、水を適当に入れたのではありません。そのかめの縁までいっぱいにしました。それはイエス様の言葉にただ従ったということです。

私たちの人生には、色々問題があります。ある時は、想像もしなかったことが起こり、四面楚歌のような状況に陥る時もあるかもしれません。しかしどんな時でも、それを十分に解決してくださる力が神様にあるという確信を持たなければなりません。そして、それとともに神様のみことばに従わなければならないのです。私たちの目の前の問題だけを考えるのではなく、神様を信じ、神様に従う者になりたいと思います。

1月25日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「知恵と思慮深さ」              エペソ人への手紙1章7-10節

パウロはイエスキリストの中で私たちに与えて下さった、天にあるすべての霊的祝福を覚えて神様を賛美しています。その賛美の中で、強調点が天から地へ、過去から現在へ、父なる神様からみ子キリストに変わります。

先ず、パウロはイエス・キリストの血による贖い、罪の赦しを受けていると説明します。「贖い」とは、代価を払うことによって解放されるという意味です。そしてその為に払われた代価は、キリストが十字架で私たちの為に死なれた時に流された血であります。すなわち、キリストが血を流して下さった事によって、私たちは贖われて、罪の赦しを受けているということです。パウロは、これが現在の出来事であることを強調しています。というのは、イエス・キリストの血による贖いの出来事が過去の思い出でもなく、またはるかに遠い将来の希望の意味でもないということです。今の私たちが持っていて、受けている神様の霊的祝福であるという事です。そして神様の豊かな恵みはイエス・キリストによる贖い、罪の赦しとともに、これを理解することが出来るあらゆる知恵と思慮深さをも信者に与えて下さいます。このような知恵と思慮深さは、人間の努力によって得られるようなものではなく、神様が豊かな恵みによって私たちに溢れるように与えて下さるものです。そしてその知恵と思慮深さを与えて下さるのは、神様のみこころの奥義を教えて下さる為であります。

神様はあらゆる知恵と思慮深さを持って、ご自分のみこころの奥義を教えて下さる為に、私たちに溢れるように恵みを与えて下さるお方です。パウロは、このような神様の豊かな恵みを覚えていたので、状況に絶望する事ことなく、その状況で神様の恵みに感謝しながら賛美する事が出来たのです。私たちもパウロのように、現実の難しさや苦難等で失望したり、落ち込んだりするのではなく、神様が私たちに与えて下さる恵みを覚えて神様を賛美し続ける者になりたいと思います。

1月18日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「霊的な祝福」            エペソ人への手紙1章3-6節

パウロはローマで牢屋に投獄された状況でこの手紙を書きました。しかしそのようなパウロが挨拶の後、最初に話したのは「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。」ということです。そしてその言葉を始めて、一回も休まずに14節まで一気に神様の恵みとそれに対する感謝を表しています。3-14節は、新約聖書の中で一番長い文章であって、とても力強くて生々しい表現で神様を賛美しているのです。

パウロは、たとえ牢屋に閉じ込められていたとしても、そのような自分の状況に縛られているのではなく、彼の内面には神様による喜びと感謝の告白でいっぱいになっていたのです。これが今日の私たちにパウロが見せてくれるクリスチャンの姿であると言えるでしょう。これが2節で言われているクリスチャンに与えられた「恵みと平安」であるのです。

どのようにして使徒パウロは獄中でも、神様からの恵みと平安で喜び、神様をほめたたえる事が出来たのでしょうか。それは、天にあるすべての霊的祝福というものがどういうものであるかを知っていたからです。そして、その霊的な祝福とは、この世界を造られる前から私たちを選んで下さったということです。そして、神様の御前で聖く傷のない者として下さるためであります。

私という存在は神様がお選びになるようなことは、何も持っていません。神様に選ばれるところか、むしろ自分の罪によって滅びる事が当たり前の存在でありました。しかし、神様はこのような私を選んでくださり、ご自分の子どもとしてくださる素晴らしい恵みを与えて下さいました。この霊的祝福は値なしに与えてくださる神様の恵みなのです。このような神様の恵みを覚えている時、私たちも神様を賛美せずにはいられません。パウロのように、私たちの状況、周りの環境、目に見える多くの苦難などがありましても、その中で神様に賛美をささげる者になりたいと思います。