礼拝メッセージ

4月2日(日)礼拝メッセージ要旨

 

「十字架の道」              マルコの福音書15章:16-21
本日の本文の20節を見ますと、ローマの兵士たちがイエス様を嘲弄した後、十字架につけるために連れて行く場面があります。何の罪も犯さなかったイエス様でありますが、ユダヤ人たちの偽りの訴えによって罪人とされ、残酷な十字架刑を宣告されました。20節の前半を見ますと「彼らはイエスを嘲弄したあげく、その紫の衣を脱がせて、もとの着物をイエスに着させた。」と書いてあります。紫の衣を脱がせた時、その痛みは言葉では説明できないほどだったと思います。何故なら、イエス様はすでに全身を鞭に打たれて傷だらけになっていたからです。全身が傷だらけで、まだ血が流れていたはずなのに、ローマの兵士たちはイエス様を嘲弄するために、その傷の上に紫の衣を着せたのであります。そして、その衣が脱がせられた時、私たちには想像も出来ない痛みが加えられたと思います。ローマの兵士たちは、このような状態のイエス様を連れて、十字架につけるためにゴルゴダの丘に出発しました。
ところが、途中でイエス様は限界に至り、もう進む事が出来なくなりました。イエス様が受けて来た事を考えて見ると、誰もそのようになったと思います。この時、ローマ兵士が一人の人にイエス様の代わりに十字架を背負うようにします。その人が本文の21節に出て来るクレネ人シモンという人物です。そしてシモンは、何故私なのかという疑問とともに、シモンは十字架を背負ってゴルゴダの丘まで行くようになりました。そしてシモンはイエス様が十字架に付けられる事も、イエス様の死も見たでしょう。無理やりに十字架を背負うようになり、自分とは何の関係もないと思っていたイエス様の受難、十字架、死はシモンと彼の家族も救われる切っ掛けになりました。
無理やりに背負うようになった十字架がシモンと彼の家族を変える大きなきっかけになったことのように、私たちに与えられる奉仕一つ、一つが私たちの信仰を振り替えて見ることが出来る大きなきっかけや大きな喜びとなるようにと願います。
私たちの人生の中に突然訪れる試練、苦しみや苦難等によって、私たちは絶望に陥り易いです。しかし、そのような突然な苦しみや苦難の中でも、絶望したりするのではなく、イエス様の十字架を覚える者になりたいと思います。

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