礼拝メッセージ要旨

2月7日(日)礼拝メッセージ要旨

 

「信仰による生き方」               創世記 12章1〜4節
創世記11章までの内容を見て来ましたが、その中で繰り返されること、それは罪を犯す人々、それに対する神さまから裁き、そして神さまから離れた人々の姿であるということが出来ます。カインとアベル、ノアの洪水、バベルの塔など、罪を犯した人間に神さまの裁きが下され、人々は新しい出発をします。しかしこの世の姿は再び罪に溢れるようになり、人間は以前の姿に戻ってしまいます。神さまから離れ神さまを捨てて罪に向かう人生を生きています。
それで神さまは、今までは違う新しい御業を始めてくださいます。そしてその始まりとなるのがアブラハムです。その新しい始まりというのは、この世で神さまの民を作られることです。神ご自身のための民、神さまに属する民を作ろうとし、そのために神さまご自身がアブラハムという人を召してくださったのです。神さまはアブラハムを通して、この世で新しい国、神の国を、そして神さまの御計画を成し遂げていく区別された民を作ろうとされたのです。ですから創世記12章はアブラハムの物語りの始まりである同時に神さまの民の始まりであり、それを成し遂げてくださる神さまの話しの始まりであるともいうことが出来ます。
本日の本文は、ハラン(あるいはカラン)でアブラハムに神さまのみ言葉が与えられたことから始まっています。アブラハムの生まれ故郷はメソポタミア地域のウルというところですが、12章ではハランというとことで住んでいます。それは父のテラが家族を連れてカナンに向かう途中でハランに止まり、そこで住み始めったことからでした。ところが父テラはハランでなくなり、その時までもアブラハムには子どもが産まれていなかったのです。これはアブラハムにとっては大きな悲しみであり、大きな心配でありました。そのようなアブラハムに神さまの御声が聞こえて来まして12章1〜3節のみことばが語られたのです。
この時、アブラハムにとって神さまの約束のみ言葉は将来への確信として聞こえたことだと思います。そして神さまが語って下さった通りに家を離れ、示してくださるところに向かった出発したのです。神さまは私たちにも聖書を通して語ってくださり、神の民、神のこととされたものとしての歩むべき道を教えて下さいます。アブラハムのように、神さまは教えて下さった通りに従って歩んで行くことが出来る者になりたいと思います。

1月31日(日)礼拝メッセージ要旨

 

「変えられた者」              ルカの福音書19章1〜10節
人は誰も自分の人生や、その姿がより良いものに変えられることを願います。しかし変えられることを願いますが、同時にそれが難しいと痛感する時があります。中々変わらない自分の姿などによって失望する時もあります。私たちは本日の本文でザアカイの変えられた姿を見ることができます。そしてそれはイエスさまとの出会いによって、ということでした。
ザアカイという名前は「正しい」「きよい」という意味を持っています。ザアカイは名前の意味のような人生を生きてきたことでしょうか。2節の「収税人のかしらで、金持ちであった」という紹介から、そうでなかったことが分かります。当時の収税人はローマ政府により税金を取ることができる力が与えられていました。そしてローマ政府には決まった税金を送れば良かったので、人々には決まった税金より多く取ることが出来ました。多くとって残りを自分のものにしましたので、税金をたくさんとれば取るほど金持ちになることが出来ました。しかし、そうすることによって同族のユダヤ人からの非難なますます大きくなったことだと思います。金持ちであった、ということからザアカイは富と力に執着して行ったことだと思います。何故なら、その富と力さえあれば幸せになり、自分の全てが満たされると思っていたからだと思います。
しかし、そうではありません。ザアカイも富と力で満たされないものがある、ということを知り、イエスさまについて聞いてこのお方ならその答えがある、と思ったことだと思います。その思いからザアカイはイエスさまを見ようとしましたし、大勢の人々がいたにも関わらずいちじく桑の木の上まで登ったことではないでしょうか。そしてイエスさまにであった時に、彼の心はイエスさまによって満たされたことでした。それによって人生の中で最も大切にして来たものを、他の人々のために施し返すようになりました。何故なら、もうイエスさまによって自分の心が満たされたからです。そのようにイエスさまによって満たされ、その人生が変えられた者、その人をイエスさまは「アブラハムの子」、即ち信仰の人と話してくださいます。私たちの人生もイエスさまに聞き、このお方によって満たされ変えられて行きたいと思います。

1月24日(日)礼拝メッセージ要旨

 

「捕まえられたイエスさま」        マタイの福音書26章47〜56節

本日の本文はイエスさまが捕えられる内容です。木曜日の真夜中、ゲツセマネの園で祈りを終えたイエスさま、そして11人の弟子たちがいるところに大勢の人々が押し寄せて来ました。その大勢の人々は「祭司長たちや民の長老たちから」送られた人々でありまして、彼らは手に剣や棒を持ってイエスさまを捕まえるために来たのです。そしてその大勢の人々の中には、イエスさまと弟子たちと共にいるはずの一人の人がいましたが、彼はイスカリオテ・ユダです。ヨハネの福音書18章3節に「それでユダは、一隊の兵士と、祭司長たちやパリサイ人たちから送られた下役たちを連れ、明かりとたいまつと武器を持って、そこにやって来た。」と書いてありますように、その人々を連れて来たのはユダでした。
そしてユダはイエスさまに口付けの挨拶をします。口付けの挨拶、それは相手に対する尊敬と愛を、そして親しい関係であることを表すものです。しかし、この時、ユダはそのような尊敬の愛の心からではなく、イエスさまを兵士たちに渡す合図として、口付けの挨拶をしたのです。
そのようなユダと武器を持って自分を掴まえるためにきた大勢の人々の前でのイエスさま、そのイエスさまのお姿はその人々を待っていたようです。最後の晩餐の後、エルサレムから出て、そのまま誰も知らない場所に行くことも出来ました。しかし、イエスさまはユダも知っている場所に行かれました。まるでユダを待っておられたようにです。そしてその後、イエスさまは聖書が成就するために、ということを語られます。この場所から避けることも出来ましたし、この状況を逆転されることも出来ますが、そうしなかった、なぜなら聖書が成就するためにです。父なる神さまのみこころに従う、神様に信頼するイエスさまです。
そしてこれは神さまのみこころが成し遂げられる場面です。弟子たちには失敗にしか見えないことですが、ここに神さまの愛が現れているのです。私たちの目には、失敗のように見えることでも、それを通して私たちに愛を示してくださる神さまを覚えて、そのお方に頼りつつ歩むものになりたいと思います。

1月17日(日)礼拝メッセージ要旨

 

「天の父のように」             マタイの福音書5書43〜48節
本日の本文はイエスさまの律法についての教え、その六つ目です。5章21節から、イエスさまは律法の正しい意味について教えて下さいました。今日の本文はその最後の教えでもあり、そして5章の結論でもありますが、ここでイエスさまは「隣人を愛しなさい」そして「天の父ように完全でありなさい」と仰ってくださいます。
まずは、律法学者やパリサイ人たちが教えていたことは「自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め」(43節)ということでした。最初の「自分の隣人を愛しなさい」ということは旧約(レビ記19章16節など)からの教えでもあり、私たちもよく知っています。しかし、その後に続いて書いてある「自分の敵を憎め」ということは、旧約には書いてないものです。律法学者やパリサイ人たちは、旧約の色々な出来事から「自分の敵を憎め」ということを「自分の隣人を愛しなさい」という教えを付け加えたことです。それによって「自分の隣人を愛しない」という教えの範囲が本来の意味より狭くなってしまします。何故なら、相手の自分の隣人と敵に分けて、自分の隣人と思う人だけを愛するようになるからです。
しかし、イエスさまは自分の隣人を愛することは勿論、それに「自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」と教えてくださいます。隣人に敵や迫害者まで含めておられます。即ち、隣人と敵、迫害者などを分けて、その中で隣人だけを愛するということではなく、相手がどんな人であっても、その人を愛しその人のために祈らなければならない、ということです。
そしてそれは、私たちの父なる神さまはそのようなお方であるからでした。神さまは「ご自分の太陽を悪人にも善人にも昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」お方です。ですから、神さまの子となった私たちは、父なる神さまに似て行くべきでありますし、神さまのようになって行くべきです。そして「天の父が完全であるように、完全でありなさい。」ということが、信仰者である私たちが歩むべき道であります。そのために、神さまは私たちに励ましと力を与えてくださいます。聖霊は私たちを助け守り導いて下さいます。そしてイエスさまはその模範を私たちに見せて下さいました。隣人を愛しなさい、完全でありなさい、ど、この教えはとても難しいですが、私たちを助け守り導いてくださる神さまを見上げて神さまに喜ばれる道を歩んで行く者になりたいと思います。

1月10日(日)礼拝メッセージ要旨

 

「名をあげようとする人間」             創世記 11章1〜9節
「虎は死して皮を留め、人は死して名を残す」ということわざがあります。人は昔から自分の名をあげようとし、この世に名前を残したいと思うとことがあります。本日の本文は「バベルの塔」で有名な内容ですが、ここでも人々は「名をあげよう」としていたことが分かります。神さまから離れ、神さまのいない世界を作り上げようとする人間、そのような人間に対する神さまのお姿について本文を通して考えてみたいと思います。
ノアの洪水の後、地にはノアの家族の8人だけが残るようになりました。そのノアの家族に神さまは「あなたがたは生めよ。ふえよ。地に群がり、地にふえよ。」と語られ、人々は地に広がり始まりました。人間の平均寿命は洪水の前よりは短くなりましたが、それでも300年以上でありましたので人々は早く地に広がり、人々が段々多くなっている中で本文の「バベルの塔」の出来事が起こったのです。
まだ一つの言葉を使っていた人々は、一つの思いを持っていました。そして人々は、「シヌアルの地」ところを見つけ、そこに定着するようになったのです。その姿について聖書は「人々は東へ移動した(新改訳2017)」と書いてあります。それは地理的な意味もありますが、神さまから離れ、自分たちの力だけで町を作ろうとする意味もあります。そのような思いで「シヌアルの地」を見つけた人々は、そこで煉瓦と瀝青を使い始め、より良い暮らしをするようになったのです。そこで人々は「頂が天に届く塔を建て、名をあげよう」としたのです。そしてその心の中で思っていたことは「我々が全地に散らされるといけない」ということでした。それは神さまからの命令に真っ向から否定するものでありまして、それをご覧になった神さまは、人々の言葉を混乱させ、互いにことばが通じないようにされました。その後、人々は地の全面に散らされるようになりましたが、しかしそれによって人々は「生めよ。ふえよ。地を満たせ。」という神さまの成し遂げられるようになります。
神さまから離れ、神さまを捨てようとする人間。そのような人間ですが、神さまはその人々を変えてくださり、ご自分のみこころを成し遂げて下さいます。私たちも神さまによって変えられ、今は神の民となり、神さまのみこころに従って歩めるようになりました。そのようにしてくださった恵みを覚えて、今週も神さまのみこころにしたがって歩む者になりたいと思います。