礼拝メッセージ要旨

5月30日(日)礼拝メッセージ要旨

 

「心配しなくも良い」          マタイの福音書 6章25〜34節
私たちは、皆其々心配を持っています。学生の時は聖蹟についての心配、大人になってからは生活や健康、病気などについての心配。そして親になってからは子供についての心配や自分お親のことで心配することもあります。このように、心配はいつも私たちの中にありましたし、今も、そしてこれからもあると思います。私たちは心配のない人生を夢みますが、それのためにまた心配してしまいます。そういう私たちに、イエスさまは本文のみことばを通して心配しなくても良い、と仰って下さいます。
食べ物や着物、または住む所などは私たちが心配しているものの中で最も基本的なことだということが出来ます。しかし、イエスさまは25節で食べ物より大切なもの、着物より大切なものについて語って下さいます。命は食べ物より大切ですし、私たちの体は着物より大切です。そして私たちの命と体は、神さまが与えてくださったものであり、神さまが造ってくださったものです。私たちの誕生から全ての生涯、そして最後の死まで、その全ては神さまが与えてくださったものであり、導いて下さいます。そのように、私たちに命と体を与えてくださった神さまが、命のための食べ物や体のための着物をも与えてくださらないだろうか、ということです。
そのような神さまの恵みについて、私たちは自然を通して確認することが出来ます。本文の26〜29節を見ますと、イエスさまは空の鳥と野の百合についてお話下さいます。鳥は種蒔きも刈り入れも、そして蔵に収めることもしませんが、よく飛びまわって神さまが備えてくださった食べ物を見つけます。神さまは自然を通して鳥のために、食べ物を備えてくださり、そのようにして鳥の命を守って下さいます。また、野原の百合も同じです。百合には水と栄養が必要ですが、それは神さまが備えてくださったものであり、神さまは野の百合も育てて下さいます。このように、神さまは空の鳥も野のゆりも守り養って下さるお方であって、鳥や花よりも大切な私たちには、それ以上の助けと守り、導きを与えて下さるのです。
私たちはそのような神さまのことを覚えまして、過去のことを後悔したり、将来のことを心配したりしないようにしたいと思います。今日という新しい日を与えてくださり、その日を守り導いて下さる神さま、祝福して下さる神さま、その神さまが与えて下さる喜びの中で感謝しながら生きて行く者になりたいと思います。

5月23日(日)礼拝メッセージ要旨

 

「悲しむべきこと」             ルカの福音書23章27〜31節
ピラトはイエスさまの無罪を主張しましたが、ユダヤ人たちの求め通りにイエスさまの十字架形が決まりました。その後、イエスさまは鞭で懲らしめられて処刑所であるゴルゴタの丘へと十字架を背負って歩んで行かれます。その苦しみの道において、身体中の傷と重い十字架のため、イエスさまは何度も倒れられます。結局、ローマの兵士はそこにいたクレネ人シモンに十字架を背負わせました。すでに疲れ果てたイエスさまはふらふらしながらゴルゴタの丘へと歩まれまして、そのようなイエスさまの周りには多くの人々が集まり、イエスさまの後についていました。
そしてその大勢の人々の中には「イエスのことを嘆き悲しむ女たちの群れ」がいました。イエスさまが捕まえられた後、イエスさまのみがたは一人もいないようでした。多くのユダヤ人たちは、イエスさまを罵りあざけまして十字架につけろうと叫びました。しかし、その中にも「イエスのことを嘆き悲しむ女たちの群れ」がいたことを著者ルカは記していたのです。
イエスさまはその女性たちのことを「エルサレムの娘たち」(28節)呼んでおられます。ですから、この女性たちはガリラヤからイエスさまについて来た女性たちとは異なり、エルサレムに住んでいた女性たちであると思われます。彼女たちは、イエスという人が十字架に掛かるという話を聞いて街に出て、十字架を背負って歩まれるイエスさまの姿を見たでしょう。血のまみれとなっているイエスさまの姿を見て嘆き悲しんだことだと思います。
その女性たちにイエスさまは、「わたしのことで泣いてはいけない。むしろ自分自身と、自分の子どもたちのことのために泣きなさい。」と仰い、それは『不妊の女、子を産んだことのない胎、飲ませたことのない乳房は、幸いだ』と言う日が来るからでした。これは紀元後70年に起こったエルサレムの滅びのことでありまして、その苦しみのことを予言してくださったことです。これから大変恐ろしい、酷いことがあなたがたに起こるから、自分自身と子供たちのことのために悲しみ嘆きなさい、ということでした。
私たちは何を嘆き悲しむべきでしょうか。それは終わりの時の最後の審判ではないでしょうか。しかし、この時イエス様は私たちを救ってくださるために、苦しみを受けられ十字架につけられ、ご自分の命を捧げて下さいました。そしてその十字架によって、信じる私たちはその恐ろしい最後の審判から救われました。その救いの喜びを覚えまして神さまに感謝し、愛する人々のこの福音を伝える者になりたいと思います。

5月9日(日)礼拝メッセージ要旨

 

「神と富」             マタイの福音書6章19〜24節
イエスさまは6章の前半で宗教的な行為である善き行い、祈り、断食について教えてくださいました。その宗教的行為において重要なことは「隠れたところで見ておられる」父なる神さまを覚えてということでした。そのように他人の目を意識せず、私たちをご覧になっておられる神さまを覚えて行う時、天の神さまが報いてくださると教えてくださいました。
6章の後半においては、この世を生きていく神の民が、この世と神さまに対してどのような姿勢を取るべきであるのかについて教えてくださいます。その姿勢において重要なことは、本文の24節にあります「あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということは出来ません。」ということです。これはAかBか、どっちらかを選ばなければならない、ということです。一方に仕えていましたら、他方には仕えることができないのです。もし、神さま以外のものに仕えていれば、それはもはや神さまを真実に愛していないことになる、ということです。私たちは神さまをも愛し、この世をも愛しようとします。しかし、24節のイエスさまの教えによりますと、神さまを愛しながら世をも愛することはできないことです。一方を憎んで他方を愛することになるか、一方を重んじて他方を軽んじることになるからです。ですから神さまを主人として仕え、神さまのみを愛しなさい、ということを教えてくださっておられます。
そこで神さまを愛することについて「自分の宝を地上に蓄えるのをやめて、天に蓄えなさい」と語ってくださいます。ここでの宝とは、富やお金だけではなく、この世での名誉や地位、健康や家族など、自分にとって大切なものです。その大切なもの自体が悪いということではなく、それに対する私たちの姿勢がどうなのか、ということです。その宝を神さまより大切にすること、それはその宝に仕えることであり、自分の宝を地上に蓄えることです。しかし、この地上のものは虫とさびで、きず物になります。それがどんなに立派で美しいものであるとしても、この世のものは終わりがあり、人間の心を満たすことはできず空しいものです。
自分の宝を天に蓄えること、それは神さまを主人として仕えることです。この世のものは神さまに仕える手段として使え、神さまの栄光を表すための手段として用いることです。そのためには、私たちは神さまの管理者であり、自分の全ては神様から与えられたものであることを覚えて、神さまのために使えなければなりません。信仰者である私たちは、この世において旅人です。神さまの管理者です。ですので、神さまの御心にしたがって神さまの栄光を表す者として歩んで行きたいと思います。