礼拝メッセージ要旨

8月2日(日)礼拝メッセージ要旨

 

「みことばを聞き入れる」            ゼカリヤ書 7章8〜12節
本日の本文では、神様のみことばに対するイスラエルの民の聞き方が戒められています。子供たちに何かを話しをするとき、子供たちがその話しを聞いているようでありながら、聞いてない時があります。それは大人も同じだと思いますが、何かに夢中になっていたり、考えことをしていたりしますと、他の人の話しは聞こえてきてもそれにちゃんとして答えを返すことができない時があります。私たちの神様のみことばに対する姿はどうでしょうか。
本文の11節に「それなのに、彼らはこれを聞こうともせず、肩を怒らし、耳をふさいで聞き入れなかった。」とありますが、これは「断食」に関する質問からのことでした。7章2節、3節を見ますとベテルから人々が来て「私が長年やってきたように、第五の月にも、断食をして泣かなければならないでしょうか。」という質問をします。この第5の月の断食というのは、南ユダが滅びる時、神殿が破壊された悲しみを覚えるためのものでした。それを70年間、イスラエルの民は守り続けて来たのです。とことが、この時は、バビロン捕囚から解放されてエルサレムに戻ってきていますし、神殿の再建工事も半分以上進んでいる状況でした。そういうことから、「第5の月の断食」をこれからもすべきなのか、という質問だったのです。
そういう質問に対して神様は、7章の5節と6節でその断食は「このわたしのために断食したのか。」と語られ、それは「自分たちのためではなかったか。」と語られました。即ち、その断食はイスラエルの民のためのものであって神様のまめのものではなかったということです。何故なら、イスラエルの民は神様からの教えとみことばを「聞こうともせず、肩を怒らし、耳をふさいで聞き入れなかった。」からです(11節)。そして神様は預言者たちを遣わしてくださり、語ったくださいましたが、イスラエルの民は自分たちの心を金剛石のように固くしてそれを聞き入れなかったのです(12節)。本来彼らが嘆くべきことは、神様のみことばに従わなかった罪、神様のみことばを聞き入れなかった罪なのに、そうしかなったということです。
神様は聖書を通して「神を愛し、隣人を自分自身のように愛しなさい。」と教えて下さいます。そのような神様からの教えに対して私たちはそのように答えているでしょうか。その教えを心から聞き入れて神を愛し、隣人を愛するものとなりたいと思います。