礼拝メッセージ要旨

4月26日(日)礼拝メッセージ要旨

 

「神様の御業―ヨセフ―」               詩篇105篇16〜19節
本日の本文はヨセフについてです。ヨセフは少年の時、お兄さんたちに憎まれてミデヤン人の商人に売られます。その後、エジプトの侍従長ボティファルの奴隷となりますが、それでもヨセフは最善を尽くし誠実に働き、ボティファルより信頼を受けるようになります。そのままヨセフの人生はうまく行くのかと思ったら、今度はボティファルの妻によって濡れ衣を着せられて王様の囚人を監禁する監獄に入れられます。その監獄で2年かをも過ごすようになりますが、そんな中でエジプトの王、パロの夢を解釈することでエジプトの総理大臣となります。そして神様が教えてくださった通りに、7年間の豊作をもって7年間の飢饉を準備します。7年間の飢饉が始まり、ヤコブの家族も食べ物がなくなりましてエジプトにヨセフのお兄さんたちを送りますが、それによってヨセフはお兄さんたちに出会うようになります。やがてはヤコブの家族全員でエジプトに移住するようになります。
以上のヨセフの物語は創世記37章以降に書いてありますが、創世記では時間の流れによってヨセフの人生を紹介しています。一方、本日の本文は同じくヨセフについて話していますが、時間の流れによってではなく、神様の観点から、または信仰の目を持ってみたヨセフの人生について説明しています。ですから、本文も「こうして主はききんを地の上に招き、パンのための棒をことごとく折られた。」と神様の御業の説明から始まっています。そしてヨセフが経験した様々な苦難、人生の苦しみをも「主はひとりの人を彼らにさきがけて送られた。」をも神様のご計画の中で、神様がそのようにしてくださったと説明しています。17節の「主は送られた」ということは、神様がヨセフに特別な使命を与えてくださり、派遣してくださったという意味です。そのように神様はご計画の中で確かな目的を持って、さきがけてヨセフをエジプトに遣わして下さったことでした。
私たちはヨセフの人生をそのような観点から見ているでしょうか。また、私たちの人生をどのような観点から見ているでしょうか。ヨセフの人生、それは苦難の連続にしか見えませんが、しかし神様はそのような過程を通してヨセフを神様に遣わされた者として練ってくださり、ご計画の中でヨセフを用いて下さいました。私たちの人生の中でも様々な苦難がありますが、苦しみの中でも私たちと共にいてくださる神様、ご計画の中で導いて下さる神様を覚えたいと思います。

4月19日(日)礼拝メッセージ要旨

 

「わたしを愛しますか」          ヨハネの福音書21章15〜19節
今日の本文にはイエス様とペテロの会話が記されています。21章2節を見ますと、ペテロを含めて7名の弟子たちがともにいました。彼らはイエス様が捕らえられた時、イエス様を裏切り捨てて皆逃げてしまいました。また、ペテロは人々から「あなたもイエスの仲間ではないか」と追い聞かれた時「『そんな人は知らない』と言って、のろいをかけて誓い始め(マタイ26:72)」て逃げてしまったのです。弟子たちはイエス様とともに生活しながら教えられ、イエス様が行なわれた奇跡をも見ました。そしてイエス様は弟子たちに十字架の出来事について3回も教えて下さいましたが、弟子たちは皆逃げてしまい、失敗してしまったのです。
しかし、今日の本文を読んでみますと、イエス様は弟子たち責められることではなく、愛を持って弟子たちに話しかけて下さいます。そのようなイエス様のお姿から、失敗を赦して下さり変わらない愛をもって私たちに話しかけて下さるイエス様について学ぶことができると思います。
まず、イエス様はペテロのことを「ヨハネの子シモン」と3回も呼んで下さいます。そしてこの「ペテロ」という名前は、イエス様に初めて出会った時につけてもらった名前でした。それ以降「シモン・ペテロ」という呼び方は良く使われ、21章でもそうでした。しかし、ここでは「ペテロ」という名前ではなく「ヨハネの子シモン」と初めて出会った時の呼び方で呼んで下さっておられます。ペテロという名前、これはイエス様が付けて下さったものです。ですから、ペテロはその名前で呼ばれることによって、イエス様に対する自分の失敗が思い出されたかも知れません。また、ペテロ自身もその名前から自分の失敗を考えずにはいられなかったかも知れません。しかし、イエス様は「ヨハネの子シモン」と呼んで下さる事によって、失敗した弟子として呼んでいるのではなく、イエス様と初めて出会った時の姿を覚えて下さった呼んでおられるのです。このようなイエス様の姿は、ペテロに対する変らない愛を示して下さることであり、その愛をもってペテロを呼んでくださることだと思います。
その後、イエス様はペテロに3回も「あなたは、わたしを愛しますか。」と聞かれます。それは他の何よりもわたしを愛しますかという、イエス様への愛の再確認が問われていると思います。何よりも、誰よりも、あなたはわたしを愛しますか。あなたは真にわたしを愛しますか。とイエス様が聞いておられるのです。失敗を経験して落ち込んでいるペテロでありましたが、イエス様は3回の質問を通して、ペテロ自身がイエス様を愛している事をもう一度確認して下さったのです。そのようなイエス様のお姿を通してペテロはイエス様への愛を覚え、自分の心の中で再確認し、その思いを真心から告白することが出来たと思います。
イエス様は、私たちにも同じように聞いておられます。「あなたは、わたしを愛しますか」そして変らない愛をもって私たち一人一人を呼んでおられます。このようなイエス様の愛の呼びに、「主よ。私があなたを愛することとは、あなたがご存じです。」と答え、その愛の中で歩んで行く者になりたいと思います。

4月12日(日)礼拝メッセージ要旨

 

「平安があるように」          ヨハネの福音書20章19〜23節
この朝、イエス・キリストの復活を記念として教会に集まり、または各家庭で礼拝を捧げている教会の皆様、イースターおめでとうございます。全国において新型コロナウイルス感染症が拡散しつつあります。その状況は急変していまして、毎日のニュースを聞き、不安になり心配も多くなる時期でもあります。そのような状況に置かれている私たちでありますが、皆さんは信仰者として平安の中で歩んでいるでしょうか。
本日の本文は「その日」すなわちイエス様がよみがえられた日であり、「週の初めの日」と書いてありますが、日曜日のことです。この復活の日に弟子たちはどのようにしていたのかといいますと「弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあった。」ということでした。イエス様を十字架につけて殺してしまったユダヤ人たち、そのユダヤ人たちが今度は自分たちを捕まえるのではないか、と。そのユダヤ人たちに自分たちも殺されることではないか、と恐れて、弟子たちは集まっていたところの戸をしっかりを閉じていたのです。そのような恐れの中にいた弟子たちに現れたイエス様は「平安があなたがたにあるように」と挨拶してくださることでした。これはヘブライ語では「シャローム」であって、ユダヤ人にとっては日常的な挨拶でした。それは、即ち復活されたイエス様は恐れの中にあった弟子たちに現れられていつものように挨拶してくださいました、ということだと思います。いつものような憐れみ深いお姿で愛をもって恐れていた弟子たちに平安の挨拶をしてくださったのです。イエス様が苦しみを受けておられた時、弟子たちはイエス様を裏切り、捨てて逃げてしまいました。ペテロはイエス様を知らないと3回も否定し、その場から逃げてしまいました。そして今は、ユダヤ人たちを恐れ、戸をしっかりと締めて身を隠していたのです。そのような弟子たちでありましたが、イエス様はいつものように「平安があなたがたにあるように」と愛を込めて挨拶してくださり、話しかけてくださったのです。そしてそのようなイエス様を見た弟子たちは「喜んだ」のです。恐れ包まれて不安の中にいた弟子たちでしたが、復活のイエス様に出会い喜ぶようになったのです。
私たちの今の心は如何でしょうか。不安があり、恐れをももっています。これから如何なるだろう、という不安や恐れがあります。そのような私たちに、この朝、イエス様は「平安があなたがたにあるように」と仰ってくださいます。いつも変わらない恵みと愛をもって私たちを守り導いてくださるイエス様を覚えたいと思います。その復活のイエス様の御声を聞き、不安や恐れがあっても喜びと平安の中で歩んでいく者になりたいと思います。