「問題を通して深められる絆」 使徒の働き16章11−40節
使徒の働きより、最初のヨーロッパ伝道であるピリピでのお話。私たちの人生に問題や困難は付き物だが、“問題の信仰的な捉え方”が重要。「神様はこの問題を通して、私に何を教えようとしておられるのか?」と御心を求め、御声を聞く時、私たちはキリストに似た者にされる聖化の歩みをしていく。
ピリピはギリシャ文化の色濃い異教の地だったが、紫布商人ルデヤ(リディア)が主を信じクリスチャンとなる。かくして、産声を上げたピリピ教会だが、早々にパウロらは、占いの霊に憑かれた女から悪霊を退散させたため、儲けを失った女の主人たちから逆恨みを受け、ついに投獄されてしまう。
鞭打たれ牢獄の中でもパウロ達は神を賛美した。神はパウロらの賛美に応えられ、大地震により全ての囚人は解放された。任務の不履行を悟り牢獄の看守は自害を試みるが、何と全ての囚人はそこに残っていた。主の真実の力に悔い改めた看守は、本人もその家族も皆救われた。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」。これは大きな励ましの言葉。無実の罪であったパウロらは翌日解放され、ピリピ教会の人たちを励まし町を後にする。
「共に問題を乗り越えることを通して深められる絆」がある。ピリピ教会はその後、神の家族としてパウロらの宣教を祈り・物質・金銭面で大きくサポートする。パウロは彼らの事を思い、獄中でも感謝と喜びで満たされた。共に主の奇跡を味わい、苦労を乗り越えた事は、順風満帆な時以上に彼らの絆を深めた。人生には、「どうして私にこの様な事が」という事が起こる。しかし、それは私たちがさらに主にあって練られ霊的成長するための好機。私たちはキリストのために、信仰だけでなく、苦しみをも賜っている。
「あなたがたがキリストのために受けた恵みは、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことでもあるのです。」 ピリピ1:29。
「マリヤの信仰」 マルコの福音書14章1~9節
イエス様のエルサレムへの旅も目的地のすぐ前まで至りました。平行箇所であるヨハネの福音書12章によりますと、この日は土曜日でありまして、このベタニヤで止まってからイエス様は日曜日にエルサレムに入られます。エルサレムに入る前日、イエス様はシモンというに人の家で食事をするとこになりました。食事のために集まり、食卓についていた時、「ひとりの女が、純粋で、非常に高価なナルド油の入った石膏のつぼを持って来て、そのつぼを割り、イエスの頭に注いだ。」のです。
この時、ヨハネの福音書によりますと、マルタとマリヤ、ラザロも共にいましたが、イエス様の頭に香油を注いだ「ひとりの女」はマリヤでした。マリヤがイエス様に注いだ香油は「純粋で、非常に高価なナルド油」と書いてありますが、後からの弟子たちの話しを見ますと300デナリ以上で売ることが出来るものでした。300デナリとは、300日分の給料にあたりまして、当時の1年間の収入とも言える大きな金額でした。そのように高額な香油を一気に使ってしまったマリヤの姿を見た反応は二つがありました。マリヤの姿をみた弟子たちは、それをもったいないと思い、憤慨してマリヤを厳しく責めました。しかしイエス様は「わたしのために、りっぱなことをしてくれたのです。」と話されます。
何故、マリヤはこのようなことをやったのでしょうか。どうしてこのようなことができたことでしょうか。それはイエス様を愛する心からのことだと思います。愛するイエス様のために、自分が持っているものの中で一番大切にしていた高価なナルドの香油を、イエス様のために使ったことです。そしてそれは十字架の出来事を前にしているイエス様においては「埋葬の用意にと、わたしのからだに、前もって油を塗ってくれた。」ことになったのです。私たちもマリヤのように、自分の最も大切なもの、人生そのものをイエス様のために使いたいとも思います。私たちのためにご自分のいのちを惜しまずに捧げてくださったイエス様の愛に応えて歩んで行く者になりたいと思います。
「小さなことにも忠実に」 ルカの福音書19章11~27節
弟子たちやイエス様についていた多くの人々は、イエス様がエルサレムに近づくことによって、大きな期待を抱くようになります。それはイエス様によってユダヤ民族がローマ帝国から解放され、世界で最も優れた民族となることです。そう思っていた人々に、ザアカイの家でのイエス様の発言「きょう、救いがこの家に来ました。」ということは、自分たちが思うようなことが起こるだろうという期待感をもっと強くすることでした。それで多くの人々は「神の国がすぐにでも現われるように思っていた」のです。ここまでイエス様が行って来られた数多くの奇跡、教えて来られたこと、さらに過越の祭という時期のことまで。この時、弟子たちを含めて多くの人々はイエス様がエルサレムに入られると、すぐに神の国が現れると思っていたのです。
そのように思っていた人々にイエス様は十ミナをしもべたちに預けた主人のたとえ話を話してくださいます。ある身分の高い人が王位を受けるために遠い国に行きます。その時に、彼は10人のしもべたちを呼んで、一ミナずつを与え、「私が帰るまで、これで商売しなさい。」と話しました。そして主人が帰ってきまして「金を与えておいたしもべたちがどんな商売をしたかを知ろうと思い」しもべたちを呼びました。3人のしもべたちが出てきますが、その中で二人は十ミナと5ミナを儲けたと主人に話し、それに対する報いをもらえました。しかし、一人のしもべは「私はふろしきに包んでしまっておきました。あなたは計算の細かい、きびしい方ですから、恐ろしゅうございました。」と報告し、このしもべは1ミナをも取られてしまいました。
主人が遠い国に行って帰ってきたように、イエス様の再臨も遠いことです。しかし、主人か帰ってきたように、その再臨は必ずあることで、その時まで信仰者である私たちにはあることが命じられているのです。それはイエス様の教えに忠実に従い、それを実践し証しする生き方なのです。やがて来られるイエス様のことを覚えまして私たちに与えられた救いの喜びを証しして歩んで行きたいと思います。
「神のくすしい御業に」 詩篇107篇1〜7節
本日の本文である詩篇107篇は4つの段落に分けることができます。各段落は色々な苦しみについて書かれていまして、各段落ことに「彼らは、主の恵みと、人の子らへの奇しいわざを主に感謝せよ。」という同じ表現が書かれています。その中で語られている苦しみは、この世の中で経験することがあるようなことでありまして、その苦しみの中においても「主の恵みと、人の子らへの奇しいわざ」を覚えて神様に感謝せよ、と語りかけている詩篇です。特に色々な苦しみのことを話しながら主に感謝せよ、という言葉を繰り返しています。それはどんな状況においてもそして神様だけに感謝せよということを強調していることだと思います。
そんな中で4〜7節では荒野での苦しみについて話しています。出エジプトの後、イスラエレの民が荒野でさまよったことを描いています。苦しみの中で彷徨い、荒野の中でどこに行くべきなのか、その道さえも分からない状況。その中で飢えと渇きによってますます苦しくなる、肉体的な苦しみとその魂までも衰え果ててしまう状態でした。このような姿は、私たちの人生そのものではないかと思います。苦しみに溺れて、進むべき方向も見失い、生きる希望さえ持てなくなる。時に私たちはそのような苦しみの道を通ることがあります。
そのような苦しみの中で信仰者はどうしたら良いでしょうか。6節に「この苦しみのときに、彼らが主に向かって叫ぶと、主は彼らを苦悩から救い出された。」とありますように、神様に叫び祈らなければならないと思います。そのように祈る時に神様は、まっすぐな道に導き、住むべき町へ行かせてくださるのです。その神様の恵みとくすしい御業を覚えて神様に感謝せよと詩人は語りかけているのです。苦しみの中においても私たちを助け出してくださる神様、その神様が私たちを真っ直ぐな道へと導いてくださることを覚えて生きる限り神様を賛美する者になりたいと思います。