礼拝メッセージ要旨

7月29日(日)礼拝メッセージ要旨

 

「愛に取り囲まれる」        Ⅰコリント人への手紙 5章13-15節
 本日の本文はパウロがコリント教会に書いた手紙です。聖書の中でパウロの最初の姿はクリスチャンを迫害し、キリストを迫害することでした。そのようなパウロは、クリスチャンを捕まえるためにダマスコに行く途中でイエス様に出会い、今までの人生とは180度変わった人生を歩むようになりました。キリストを迫害する者から、キリストの使徒として世界中に福音をのべ伝える働きをするようになったのです。そのようなパウロの人生は、決して平坦の道のようなものではありませんでした。異邦人の使徒として福音を伝えることを一所懸命にやればやるほど、もっと大きな苦難があったのです。福音を伝えることによって同じユダヤ人から非難され、迫害を受け、時には命までも危険になることもありました。
 本日の本文においても自分を非難する人々に対してパウロは「もし私たちが気が狂っているとすれば、それはただ神のためであり、もし正気であるとすれば、それはただあなたがたのためです。」と答えています。周りから迫って来る非難や大きな迫害の中にあったパウロ、しかし彼の心はキリストへの情熱に満ち溢れていました。そのような情熱をもって、いつも神様の御前においては謙遜であって、その働きに良い手は神様からの力によって自分に与えられた働きをやり続けて来たのです。
 それでは、苦難の中でもキリストへの情熱を持たせたのは何でしょうか。それは「キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです。」と、答えています。そしてそのキリストの愛について14節と15節で説明していますが、それはキリストの低くなった謙遜のお姿と自分の全てをささげた犠牲の愛でした。御子キリストであられるお方が、私たちへの愛のゆえに人となってこの地に来られました。そして苦しみを受けられ、十字架につけられて、罪人の救いのために死なれたのです。そういうキリストの愛を頂いている私たち、そのキリストの愛に取り囲まれている私たちは、その愛によってどんなことをも耐え忍び、乗り越えることが出来るのです。

7月22日(日)礼拝メッセージ要旨

 

「イエス様について行く」           ルカの福音書14章25-35節
 この時もイエス様の周りにも大勢の人々が集まり、イエス様について行っていました。そういう大勢の人々のほうに向いて、イエス様はご自分の弟子になるためには、こうでなければならないことについて話してくださいます。本文の中には三つのことが教えられていますが、本日はその中で二つのことについて考えて見たいと思います。
 一つ目にイエス様は、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません、と語れます。この時の「憎む」ということばは「より少なく愛する」という意味です。同じことを教えますマタイの福音書10章37節には「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。」と書いてあります。即ち「自分の家族を憎まない者」とは「イエス様より家族を愛する者」となります。ここでイエス様は教えてくださることは、家族より、さらには自分の命よりもイエス様を愛する者でなければイエス様の弟子になることはできないということです。ですから、イエス様について行く者は、何よりも、誰よりもイエス様を愛する者でなければならないのです。
 二つ目にイエス様は自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、イエス様の弟子になることはできないと仰います。そして自分の十字架を負う、ということはイエス様が苦しみの道を、辱しめの道を歩んで行かれましたように、その人もイエス様について行くゆえに苦しみを受けるということです。イエス様について行くゆえに辱しめを受けるということです。神様に招かれて信仰が与えられ、イエス様が歩んで行かれた道を歩む時、そこには家族から、友人から、周りの人々から反対されることも苦しみを受けることもあると思います。そういう時に、イエス様について行く者は、そのような自分の十字架を負いつつ、イエス様に行かなければなりません。
 誰よりもイエス様を第一に愛し、どんな苦しみがあるとしても最後の最後までイエス様について行く者になりたいと思います。

7月15日(日)礼拝メッセージ要旨

 

「命と平安」               ローマ人への手紙8章5-8節
 本日の本文には二つの種類の人々は出て来ます。一つは肉に従う人であり、もう一つは御霊に従う人です。すべての人々はこのどちらかに属していますが、パウロはその二つの種類の人々を対比しながらその違いを強調して説明しています。
 先ず5節をご覧になりますと「肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。」とあります。ここで肉とは、罪によって堕落した人間の本性のことです。罪人の本来の状態とも言うことが出来ます。そのような人は、肉的なことをもっぱら考えます。それは、その人の心が肉的なことによっていっぱいになって、それが生き方の中で表われることです。使徒ヨハネはそのような人々は世を愛する、世のものを愛する人(Ⅰヨハネ2:15)だと言います。そして肉的なこととは、具体的にはガラテヤ人への手紙5章19節以降で説明されています。そういう肉の思いは死であり、それは「神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しない、服従できない」からです。
 その反面、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。御霊は私たちにキリストについて教えて下さり、そのお方を証しして下さいます。ですから、御霊に従う者はイエス・キリストを知り、そのお方を遣わして下さった神様の恵みと愛をも知るようになるでしょう。また、御霊は父なる神様のみこころを知り、それを私たちの教えて下さいます。それによって私たちは神様のみこころを知りそれに従って行き、神様に喜ばれる人生を歩むのです。そういう私たちには命を平安が与えられるのです。
 私たちは神様の恵みの愛によって救われ、神様は喜ばれるままに、御霊の導きに従って生きることが出来るようになりました。しかし、完全なものではないため、時には罪を犯し失敗をすることもあります。そんな中でも、御霊に従って歩むものであることを覚えたいと思います。

7月8日(日)礼拝メッセージ要旨

 

「招いてくださる神様」            ルカの福音書14章15‐24節
 本日の本文でイエス様は「盛大な宴会」というたとえ話をしてくださいます。それはイエス様の話しを聞いていた一人の人がイエス様に「神の国で食事する人は、何と幸いなことでしょう」と言ったことからのことでした。前の段落でイエス様は、パリサイ派の指導者の家に招かれて食卓についている人々に「義人の復活のときお返しを受ける」と言うことについて語られました。それを聞いたパリサイ人は、自分たちこそ神の国で食事を、神様よりお返しを受ける、何と幸いな人なのかと思い、それをイエス様に話したことだと考えられます。
 そのように思っていたパリサイ人たちに「盛大な宴会」のたとえ話をしてくださいます。最初に「盛大な宴会を催し、大勢の人々を招いた主人」が出て来ます。この主人は宴会のすべての準備をしておいて、宴会に行きますと答えた人々に僕を送ってその知らせをします。ところが、その宴会の話しを聞いた人々は、みな同じように断わり始めます。ある人は畑を買ったのでどうしても畑を見に行かなければならないと、ある人は五くびきの牛を買ったのでその牛を試しに行かなければならないと、そしてある人は結婚したので行けないと、盛大な宴会への招きをそれぞれの言い訳をもって断ります。このような断り方は宴会を用意した主人にとっては非常に侮辱的なことです。そのような話を聞いた主人は、彼らに怒って当然の話しです。
 しかし、この主人は怒りの代わりに憐れみを、そして恵みを示して下さいました。そして宴会を取りやめることではなく、急いで僕を送り、貧しい者や、からだの不自由な者や、盲人や、足のなえた者たちを宴会に招いて下さいます。そして自分の家がいっぱいになるように、無理にでも人を招いて来るように、と話します。この主人は父なる神様でした。私たちに「さあ、おいでください。もうすっかり、用意ができました」とご自分の宴会に招いてくださるお方なのです。その神様の憐れみと恵みを覚えて喜びと感謝をもって生きて行きたいと思います。

7月1日(日)礼拝メッセージ要旨

 

「神の箱が奪われる」           サムエル記第一 4章12‐22節
 本日の本文にはイスラエルの悲惨さがそのまま表われています。ペリシテ人との戦いで負けてしまったイスラエルは、約3万人程の人々が殺されます。そしてその戦場に担いで行った主の契約の箱までペリシテ人に奪われてしまいます。ペリシテ人との戦いで負けて多くの人々が命を失う、それだけでも大変なことなのに、神様の御臨在の象徴である神の箱まで奪われてしまうという絶望に陥ってしまいました。そしてそれで終わった事ではありませんでした。その知らせを聞いたイスラエルの人々は町中こぞって泣き叫びました。そしてその時の祭司であるエリは、その衝撃の大きさにより座っていた椅子からあおむけに落ち、首を折って即座に死にました。また、エリの嫁はその話しを聞いて陣痛が起こり、男の子を産みましたが、喜ぶところか「気にも留めなかった」と、その時の悲惨さを伝えています。さらに、その子の名前を「イ・カボテ」即ち「栄光がイスラエルから去った」とつけて、絶望に落ちているイスラエルの状態をそのまま現わします。ペリシテ人に負けてしまい多くの人々は命を失い、神の箱は奪われてもはや神様の栄光は去ってしまった。それがイスラエルの状態でした。
 しかし、神様の導きはそのような絶望で終わってしまう事ではありませんでした。希望とは少しも見えない状態の中で、神様はイスラエルを見捨てません。諦めません。再び、神の民としての道に導いてくださり、祝福への導いてくださいます。神を捨てて偶像を拝んでいたイスラエル、その罪を悔い改めず、かえって神様をペリシテ人との戦いで勝利のために利用しようとしたイスラエルを、赦してくださり再び悔い改めの道へと導いてくださいます。私たちの目にはすべてが終わってしまったかのように見え、それ以上望みとは期待できない状況であるとしても、神様は変わることなく私たちを神の民としての道へ導いてくださるのです。