礼拝メッセージ要旨

3月25日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「解放された恵み」               ルカの福音書13章10-17節
 本日の本文はイエス様が安息日に会堂で教えておられる時、ひとりの病者を癒して下さった内容です。その中で、イエス様が安息日の規定を守らなかったと非難する人々がいましたが、そういう人々に安息日の本当の意味を教えてくださっています。本文に出て来る女性は、18年間という長い間大変重い病気を持っていました。11節では「腰が曲がって、全然伸ばすことのできない女」と説明されていますが、その人生がどれ程大変であったのか想像も出来ないものです。そのような辛い人生を生きて来た彼女でしたが、しかしその信仰は素晴らしいものであったと思われます。大変重い病気をしていながらも、この女性は安息日に会堂に来て神様に礼拝をささげていたのでした。彼女の病気が重いほど、その信仰も深いものであったと考えられます。
 そのような女性をご覧になったイエス様は、彼女を呼び寄せ、「あなたの病気はいやされました」と言って、彼女に手を置いて下さいました。すると、彼女の病気は癒され、固く曲がっていた腰が伸びました。そして彼女は、その場で神様をあがめたのです。18年間も、大変長い間、苦しんでいた病気が治り、その感激と喜びをもって神様に感謝をささげる感動の場面です。ところが、その姿を見ていた人々の中には、それを嬉しく思わない人々がいました。それは会堂管理者に代表される人々でしたが、彼らはイエス様が安息日の規定を破ったと非難する者たちでした。
 そういう人々にイエス様は「あなたがたは、安息日に、牛やろばを小屋からほどき、水を飲ませに連れて行くではありませんか。」と質問されます。安息日に自分たちの家畜には解放と休みを与えるのに、この女性に与えられる本当の解放はいけないと言っているのか、と問われるイエス様です。私たちは自分の考え方から他の人を束縛していることはないでしょうか。神様が与えてくださった本当の解放、魂の安らぎを味わい、他の人々にもその喜びを分かち合う者になりたいと思います。

3月18日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「満ち足りる恵み」             ピリピ人への手紙4章10-13節
 ピリピ教会はエパフロデトを送り、投獄されているパウロに贈り物を届けました。獄中にいたパウロにとってエパフロデトの存在は大きな喜びとなりました。実はピリピ教会は以前からパウロを支援していました。その支援が献金なのか、生活用品なのか、それともその両方なのかは具体的には分かりません。しかし4章14節以降の内容を見ますと、ピリピ教会はパウロの宣教活動に支援をしていたことが分かります。それがしばらくの間止まっていましたが、本文の10節に「私のことを心配してくれるあなたがたの心が、このたびついによみがえって来た」とありまして、その支援が再び届き、それをエパフロデトが持って来たといことです。そのようなピリピ教会からの支援に対して「私は主にあって非常に喜びました。」と言ったパウロは、それを共にどんな境遇にあっても満ち足りることが出来る秘訣について説明しています。
 何故なら、ピリピ教会からの支援はとても喜ぶことでありますが、パウロが持っていた喜びと感謝はそれだけによることではなかったからです。それをパウロは11節で「乏しいからこう言うのではありません。」と語っています。ピリピ教会が自分のことを覚えて支えてくれる、そしてエパフロデトをも自分のところに送ってもらって非常に喜ぶことですが、それに対する感謝と共にあらゆる境遇に対処する秘訣を心得ていたパウロには喜びと感謝が満ち溢れていたということを証ししている事です。
 そしてその秘訣とは13節の「私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできる」と言うことでした。ですから13節で「どんなことでもできる」と言うことは「どんな境遇にあっても満ち足りることを学んであらゆる境遇に対処することが出来る」という意味です。そしてそれは大変なパウロの人生の中で神様が守り導いてくださった経験を通して学んで心得たものです。私たちをも同じく主にあって満ち足りることが出来るように導いてくださる恵みを覚えて歩んで行きたいと思います。

3月11日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「私たちを待ってくださる神」         ルカの福音書 13章6-9節
 前の段落でイエス様は悔い改めなければ滅びる、ということについて厳しく教えてくださいました。そして続く本日の本文では、それでは何を悔い改めなければならないのかといことを短いたとえ話を通して教えてくださいます。あるぶどう園の主人がいちじくの木をぶどう園の中に植えました。それは、そのいちじくの木から美味しい実を取るためでした。ところが、何年が経ってもそのいちじくの木には実が結ばれなかったのです。ぶどう園の主人は、美味しい実がなることを期待し、3年もの間、実がなったのかといことを見に行きましたが、実は一つもなかったのです。それで等々、ぶどう園の主人は、番人にそのいちじくの木を「切り倒してしまいなさい。何のために土地をふさいでいるのですか。」と言いました。それを聞いた番人は、主人に今年、もう一年を待って頂けないでしょうか、と願い出ます。その間、まこころを込めていちじくの木が実を結ぶように一所懸命に育てます、と。そしてそれでも実が取れないなら切り倒してください、と答えました。
 このたとえ話に出て来るぶどう園の主人は父なる神様を、番人はイエス・キリストを、そしていちじくの木は当時のユダヤ人又は私たちクリスチャンの事を現わしています。そこでぶどう園の主人は実が取れる時まで長く待っていましたが、それでも実がなかったので、もう切り倒してしなさいと言われますが、その中で番人はもう一年を待って下さいと一所懸命に執り成しをしているのでした。そして主人が期待していた実と言うのは、前後の文脈のことを考えて見ますと悔い改めの実です。神の民となり、ぶどう園というとても良い環境の中で、まこころを込めて育ててくださる番人までもいるのに、悔い改めの実を結ぶことが出来ない、という私たちの現状を現わしているのです。そのような私たちの側に立ち、もう一年待ってくださいと取り成してくださるイエス様の愛、またそのよう待ってくださる神様の恵みを覚えまして、聖霊の実を結ぶ者となりたいと思います。

3月4日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「神を心に据える」                 申命記8章11-20節
 本日の本文が記されている申命記は、40年間の荒野での生活が終わり、神様からの約束の地、祝福の地、乳と蜜が流れるカナンの地に入ることを間近にしている時です。このような時に、神様が約束してくださった約束の地に入るイスラエルの民に残した最後の説教が申命記であるのです。そしてモーセは、自分のこの最後の説教で「あなたがたが約束の地に入っても必ず覚えなければならないことがある。忘れてはいけないことがある。」と強調したものが申命記全体の内容であります。本日の本文においても「覚えなればならない」「忘れてはいけない」などということが非常に強調されていることを見ることが出来ます。このように40年間の荒野での生活を終えようとする時、神様がモーセを通してイスラエルの民に何を教えてくださろうとされるのでしょうか。そして今日を生きている、信仰の道を歩んでいる私たちに何を覚えなさい、何を忘れてはいけないと語ってくださっているのでしょうか。
 それは荒野での生活の中で共にいてくださった神様を覚えなさい、その神様の恵みを忘れてはいけない、ということです。もうすぐ約束の地であるカナンに入るイスラエルの民に、神様は他ではなく荒野で共にいてくださった神様を覚えなさいと強調しておられます。何故なら、その荒野での生活を通して神様はイスラエルの民の信仰を訓練させてくださったからです。そしてもう一つは、荒野での生活を通して神様の民はパンだけで生きるのではなく、神様の口からでるすべてのもので生きるということを教えてくださったからです。40年間、荒野で訓練を受け、神様からの恵みと力によって生活して来たイスラエルの民も、その生活が豊かになれば自然の神様のことを忘れてしまい、高ぶってしまうのです。その弱さを良く知っておられた神様は、彼らに神様のことを心に据えて覚えなさいと語ってくださいます。私たちも今まで守り導いてくださった神様のことを覚えて、そのみこころ通りに歩んで行く者となりたいと思います。