礼拝メッセージ要旨

1月28日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「火を投げ込むために」             ルカの福音書12章49-53節
 本日の本文の内容は、今まで学んで来たイエスさまのお姿から考えて見ますとすぐに理解出来ないかも知れません。それほど、戸惑いを感じさせる内容です。救い主であるイエスさまは旧約の時代から「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」(イザヤ9:6)と賛美されました。このルカの福音書においても、イエスさまのお生まれの時、天の軍勢が現れ「いと高きところには栄光、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」と神さまを賛美致しました。ところが、本日の本文においてイエスさまのご自分について「地に火を投げ込むために」来たと、そして51節では「地に平和を与えるために」ではなく「むしろ、分裂」を与えるために来られると語られます。そして愛の固まりであるはずの家庭においても「父は息子に、息子は父に対抗し、母は娘に、娘は母に対抗し、しゅうとめは嫁に、嫁はしゅうとめに対抗して分かれるようになります。」と仰います。こういうイエスさまの教えの真意は何かといことを考えて見なければならないと思います。
 最初に、イエスさまは「地に火を投げ込むために」地に来られたと語られますが、この「火」とは人間の罪をきよめる働きをするものとして「聖霊」と理解出来ます。特にバプテスマのヨハネはイエスさまについて「あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。」と言いました。そしてその聖霊の働きによって与えられるものとは「平和」ではなく「分裂」であり「対抗」です。それは、実は「平和」であるように見るところに「分裂」が与えられ、その分裂があるところに本当の平和を与えてくださるためなのです。火を投げ込んでくださり人間の本当の姿を教えてくださって、その上に本当の平和を与えてくださるイエスさまの事を覚えたいと思います。

1月21日(日) 礼拝メッセージ要旨      

 

「待っておられる神」              イザヤ書30章18-21節
 私たちは聖書を通してご自分の民を待っておられる神さまのお姿を見ることが出来ます。本日の本文は、その待っておられる神さまのみこころと帰って来る者に与えられる祝福と恵みがどういうものであるのかが教えられています。本文で神さまはご自分について待っておられると語られます。そして帰って来る者に対して恵みと憐れみをお与えになると語られます。当時、イスラエルは滅んで行く国の中で神さまではなくエジプト等のようなこの世の力に頼り、それに助けを求めました。そのようなイスラエルに対して神さまは帰って来ることを待っておられると語っておられるのです。
 そして今日の本文では、そのように待っておられる神さまに帰って来る者に二つのことが約束されています。一つ目は、その人の叫びを聞いてくださり、必ず恵みを与えてくださりすぐ答えてくださるということです。私たちが苦難や苦しみの時に他のものに頼り、他のところから助けを求めることではなく、神さまに叫び祈り求めるなら神さまはそれに必ず答えてくださるということです。そして二つ目は、正しい道に歩むように教えてくださり導いてくださるということです。そのような神さまのことを覚えて、間違った道に入った時、私たちに正しい道を教えてくださる神さまのみことばに従って立ちかえられなければなりません。それを待っておられる神さま、その神さまのみ教えに従って神さま喜ばれる道に歩んで行く者に変えられたいと思います。
 私たちに恵みを与えようと待っておられる神さま、その神さまは私たちの叫びを聞いてくださり、必ず答えてくださるお方です。そしていつも私たちが正しい道に歩んで行くこと出来るように教えてくださるお方なのです。このように待っておられる神さまの御前に出て行って、神さまに喜ばれる者として歩んで行きたいと思います。

1月14日(日) 礼拝メッセージ要旨      青木稔牧師

 

「労苦の中で喜びを見出す人生」      伝道者の書2章22節~26節
人生には多くの労苦があり、思い煩いがあります。仕事や人間関係、病気や老いること、更には、愛する方との死別、そして自分自身の死。どんなに労苦して得たものも、やがては、すべてを残して死んでいくことになります。このままでは、人生の意味や目的を見出すことができず、しかも、本当の希望、確かな人生の拠り所を見つけ出すことも、難しいかも知れません。
イスラエルの王にまで昇りつめたソロモンは、すべてをむなしいと語りました。しかし、それが彼の人生における結論ではありませんでした。ソロモンは、光なき人生の虚しさから、まことの光を見出したのです。旧約聖書の伝道者の書2章24節には次のように記されています。
「人には、食べたり飲んだりし、自分の労苦に満足を見いだすよりほかに、何も良いことが
ない。これもまた、神の御手によることがわかった。」
ソロモン王は真の神から離れ、いつの間にか自分中心の生き方を歩んでいました。しかし、もう一度、神に目を、心を向けたのです。そこに、自分の人生の目的や意味があることを見出したのです。
私たちの人生や仕事が、常に、自己中心であるならば、或いはまた、私たちが心配することが、自分に何ができたかという事だけなら、ソロモンのように、人生に失望し、虚しさを覚えるでしょう。けれども、もし、私たちの人生や仕事の中心が、天地万物を造り、私たちに命を与えておられる真の神であったのなら、そこには希望があります。なぜなら、神は、私たちの命と働きを、神のご計画のために用いられるからです。
新しい年を迎え、私たちの人生について聖書の御言葉からご一緒に考えたいと思います。神と共に生きる人は、必ずや、労苦の中で喜びを見出す人生を歩むことになることを…。

1月7日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「喜びの日」                  イザヤ書58章13-14節
 クリスチャンである私たちは、神さまの民として覚えて記念し、守らなければならない日が多くありますが、その中で主日より大切なことはないと思います。この主日は、旧約時代では安息日であって、神さまはご自分の民に「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。」と命じられました。そしてこの安息日と守らない人々に対しては、出エジプト記31章14節の後半で「これを汚す者は必ず殺されなければならない。この安息中に仕事をする者は、だれでも、その民から断ち切られる。」と、大変厳しく語られました。それほど、神さまの民として大切に命じられているのが安息日でした。そして、この安息日は新約時代においては主日に変わりますが、私たちも同じく主日を守る、或いは主日に教会に集まり神さまに礼拝をささげるということは非常に大切なことなのです。
 そのような主日について、本日の本文では、出歩くことをやめ、自分の好むことをせず、旅をせず、自分の好むことを求めず、むだ口を慎みなさい、と仰せられます。また、この日を神さまの聖日として覚え、「喜びの日」と呼び、主の聖日を「はえある日」と呼びなさいと命じられます。そうする者には、主にあっての喜びが与えられ、地の高い所を踏み行かせ、あなたの父ヤコブのゆずりの地であなたを養ってくださることが約束されているのです。神さまはご自分の民に主日を聖く守り尊ぶように命じられ、それに従い守る者には祝福を与えると約束してくださいました。
 皆さんにとって、毎週の主日はどのような日でしょうか。本当に、自分の人生の中で喜び、尊ぶ日でしょうか。神さまは、本文でイスラエルの民に素晴らしい約束をしてくださいます。そしてどんな状況の中でも、その日を聖く守り尊びなさい、と命じられます。私たちは、この主の日に神さまに喜ばれる者になりたいと思います。この日こそ、自分の魂に真の安らぎと喜びが与えられる日であることを覚えて、この一年間、毎週神さまの御前に集まり、礼拝をささげる者になりたいと思います。