礼拝メッセージ要旨

10月22日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「キリストを主とする生き方」          ルカの福音書12章8-12節
 前回、ルカの福音書12章1-7節のみことばを通して恐れるべきお方を恐れることについて学びました。イエス様は十字架の出来事に近付いて行くことによって、迫害に直面する弟子たちに色々な弟子としての道を教えてくださいます。そんな中でパリサイ人のパン種のような偽善、即ち内を外が異なる振る舞いについて注意をしました。そして人間を恐れることではなく恐れるべきお方である神様を恐れなさい、と教えてくださったのです。人間は目に見えるものや人間、或いはこの世を恐れます。しかし、神様の民であるあなたがたはそのような目に見えるものや人間ではなく、私たちの死の後に審判をされる神様のことを覚えてそのお方の前に立つ信仰者として、自分に与えられた信仰を堅く守りなさい、と言うことでした。
 そして神様のことを説明して8-10節においては人々の前で自分の信仰を言い表すことへの励ましを与えてくださいます。そんな中でイエス様が話してくださったのは最後の審判の場面でした。その最後の審判において、私たちの唯一の弁護者となってくださるのはキリストです。そしてそれは私たちが人々の前でキリストを主として認めるか、認めないかによって掛かっていると仰るのです。自分の信仰をちゃんと告白するかどうか、それを言い表すのかどうかが、最後の審判の時にまで繋がることでした。もう一度、私たちの信仰生活の姿を振り替え見させる教えであると思います。
 そのような重大なことにおいて、たとえ認めなかったとしても全ての罪を赦して下さることを覚えなさいを仰ってくださいます。それがイエス様をそしる、大変酷いことであって、その罪を悔い改めるものは必ず赦されると私たちを励ましてくださるイエス様です。そして自分の信仰を言い表さなければならないところに立たされても、聖霊が言うべきことを教えてくださるとも仰ってくださいます。そのように教えて下さるイエス様の教えを覚えて、どんなことがあってもただキリストを主として告白する生き方を生きる者になりたいと思います。

10月15日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「恐れるな」                 列王記第二 6章15-23節
 本日の本文は、イスラエルとアラムが戦っていた時の内容です。アラムの王はイスラエルを攻めて行きますが、度々にその計画が失敗しました。それで自分の家来の中にイスラエルの王と通じているものがいるのか疑い始めました。しかしそれは預言者エリシャによることであって、神様からの不思議な力でアラムの王が計画することを知り、それをイスラエルの王に報告したのでアラムの王の計画は何回も失敗していたのです。それでアラムの王はそのエリシャを捕えようとしてエリシャがいたドタンといる町に大軍を送り、その町を取り囲んでいたのです。
 そんな中でエリシャの召使いが朝早く起きてその状況を見ました。前日まで何もなかったのに、何時も間にかアラムの大軍が自分たちの町を包囲している姿を見て驚き、エリシャにその状況を伝えました。恐らく召使いは大変驚き、恐れてエリシャの方に行ったと思います。ところが、恐れている召使いに対してエリシャは「恐れるな」と言います。そして「私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者より多いのだから」と説明しました。召使いが見た時は、自分たちの町を取り囲んでいるアラムの大軍しかありませんでした。そうなのにエリシャが召使いに語ったのは如何ことでしょうか。
 そこでエリシャは神様に「どうぞ、彼の目を開いて、見えるようにしてください。」と祈りました。すると、その召使いの目が開かれ、なんと火の馬と戦車がエリシャを取り巻いて山に満ちていた姿を見ることが出来るようなったのです。本文に出て来るエリシャと召使いは同じ状況に置かれていました。しかし、同じ状況に置かれているとしても、何をどう見るのかによってその反応は全く違うものであったのです。同じ現実を見てもその背後で働いておられる神様、守り導いて下さる神様のことを見れるのかそうではないのかと言うのは、全く違うものなのです。私たちの目には、何が先に見えるのでしょうか。私たちの目も神様によって開かれ、神様の守りと導きを見ることが出来てどんな状況の中でも神様を見上げて歩んで行きたいと思います。

10月8日(日) 礼拝メッセージ要旨 

 

「御霊の教えに従う」             ルカの福音書12章1-12節
 イエス様は公生涯の後半、その中でも十字架の出来事が近付ければ近付くほど弟子たちにイエス様ご自身について、そして弟子として歩むべき道について教えて下さいました。彼らがこれから直面するようになるこの世からの脅かし、すなわちユダヤの指導者たちの迫害について弟子としてどうするべきなのかということを教えて下さるのです。
 時間が経つことに連れ、イエス様とユダヤの指導者たち、特にパリサイ人や律法学者、祭司長たちとの関係は悪くなり対立は激しくなります。そんな中で彼らはイエス様をどうにかしようと心を決めて、イエス様が何か間違ったことがないかひそかに計っていました。そういう流れの中で弟子たちへの迫害は十分予想できることです。そういう弟子たちにあるだろうと思われる苦難に備えてイエス様は弟子たちが歩むべき信仰の道について教えて下さったのです。特に本日の本文では、弟子たちがこれから神様は恐れないで人間を恐れることがないように教えています。そしてその人間を恐れることによって迫害の中で自分の内側の信仰を隠し、外側ではイエス様を知らないというようになります。そしてそれは偽善的な姿であって、イエス様が今まで大変厳しく注意をしたものなのです。弟子たちは目の前にいるユダヤの指導者たちの権威を恐れ、イエス様から逃げ、イエス様を知らないと言います。そうならないようにイエス様は弟子たちを教えておられるのです。
 それでは私たちが偽善的にならないためには如何すれば良いでしょうか。それは恐れるべきお方である神様を恐れ敬わなければならないのです。そしてその神様は私たちの頭の毛さえも数えられているお方であって、私たちを大切にして下さるお方なのだということを忘れてはいけません。またどのような状況の中でも私たちと聖霊がともにいて下さって私たちを導いて下さるのです。そんな中で私たちははっきりとキリストが主でさることを言い表し、実生活の中で証しして行きたいと思います。

10月1日(日) 礼拝メッセージ要旨 

 

「私を遣わした神様」                 創世記45章1-8節
 信仰者である私たちには、私たちの人生の中で起こるある出来事について人間の観点を持って見ることではなく神様の観点を持って受け入れる姿勢が必要です。私たちの目に見えるある出来事、私たちの苦しみや悩み、問題等を神様も私たちと同じ意味で語って下さるでしょうか。私たちの目に見えるその状況を神様はどのように思っておられるのでしょうか。果して、私たちと同じく思っておられるのでしょうか。多くの場合はそうではないと思います。
 そんな中で、私たちの観点から神様の観点への変化、このような観点の変化は私たちの人生を新しく見ることが出来るようにしてくれるものです。そして神様は、私たちの観点をそのように変えて行かれます。本日の本文に出て来るヨセフも、自分の人生を神様の観点から考え、神様の観点を持って理解し受けれた者であると言うことが出来ます。本文の4節の後半でヨセフは兄弟たちに「私はあなたがたがエジプトに売った弟のヨセフです。」と言います。これはヨセフと兄弟たちが知っている事実です。又は、私たちの目に見える現実とも言えると思います。しかし、5節以降のそれについてのヨセフの解釈は、徹底的に神様の観点からのものです。そのような辛い過去の事実についてヨセフは「神様は、あなたがたより先に、私を遣わしてくださったのです。」と3回も繰り返して説明しています。
 このようなヨセフの告白から、ヨセフは神様の観点を持って自分の人生を見ていると考えられます。人間の目には兄たちがヨセフをエジプトに売ってしまった事ですが、実は神様がご計画の中でヨセフを先に遣わしたことなのだということでした。時には、私たちの人生はパズルのように思われることがあって、何故それが必要なのか分からない時があります。そのような苦しみの現実、問題、苦難等を目に見えることだけではなく、神様がそれを通して成し遂げてくださることを見ることが出来るようになりたいと思います。

9月24日(日) 礼拝メッセージ要旨 

 

「よみがえりのイエス様」           ヨハネの福音書11章17-27節
本日の本文は、愛する兄弟を失った二人の姉妹と、その死の悲しみが家に満ちている場面で始まります。彼らはイエス様が愛するマルタとマリヤ、そしてラザロです。11章1節を見ますと、ラザロは病気にかかっていましたが、それは軽いものではありませんでした。お兄さんの病気を心配したマルタとマリヤはイエス様に人を送り、その病気の事を伝え、イエス様に助けを求めました。しかし本文の17節を見ますと、そのラザロは「墓に入れられて四日もたっていた」と書かれています。死による絶望と悲しみに満ちているところで、イエス様はラザロをよみがえらせるという奇跡を行ないます。そしてそのとてつもない悲しみと信じられない奇跡の中で、イエス様との会話を通してマルタの信仰が変わることを見ることが出来ます。
本文の20節、21節、そして24節でのマルタの話しを通してマルタが持っていたイエス様についての思いを知ることが出来ます。マルタはイエス様がラザロの病気を癒すことが出来ると、そして神様に求めば何でも頂くことが出来るお方と知っていました。そして復活のことについても知っていたのです。ところが、20節や21節、そして24節でのマルタの答えは、マルタの信仰を言い表す事より、イエス様に対するうらみを話しているように聞こえます。何故、そのようなみ力を持っておられるイエス様がラザロが死なないうちに、或いは手を使うことが出来る時に来られなかったのですか、と。終わりの時の復活は知っていますが、しかし今ラザロは死にました、とです。
そのように思っていたマルタに、イエス様は「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。」と、ご自分について教えてくださいます。そしてその後のマルタの答えは「あなたが世に来られる神の子キリストである、と信じております。」ということになりました。死と言う悲しみの中でもよみがえりのイエス様を信じ、その信仰によって堅くたつ者になりたいと思います。

9月17日(日) 礼拝メッセージ要旨      大竹海二先生

 

「驚くべき招待」               第1ペテロ2章9―10節
教会ということばのギリシャ語はエクレシアということばですが、元の言葉はカレオーという言葉で、カレオーとは「呼ぶ」という意味です。ですから教会とは、神に呼ばれた者たちのことと言えるのです。この神様の招きは、どこからどこへの招きであるのかというと、「やみの中から光への招き」である、ということです。
9節に4つのことが書かれています。まず「選ばれた種族」―み言葉の中に、「しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び」とあります。つまり、人間が誇る物は何一つないということです。また「王である祭司」―「祭司」ということばのラテン語の意味は、「橋をかける人」ということです。ですから、神様と人との間に橋をかける働きを、クリスチャンは祭司として、しているということです。
次の「聖なる国民」―「聖」ということばは、「他とは異なる」という意味のあることばです。光を浴びる前は、自分のために生きていました。けれども光を浴びた後は、神様のために生きる者へと変えられていくということです。最後は「神の所有とされた民」―神様の手に握られている存在である、ということです。クリスチャンは愚かで貧しい者でしかないのですが、その所有者が神様であるということで、クリスチャンは驚くべき価値をもつことになるのです。
9節の最後のところで、「それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。」と教えています。ここで言われています「すばらしいみわざ」とは、一言で言えばキリストの十字架のみわざのことです。今朝のみことばは、自分のそばにいる人たちが、神様の愛の対象の人であり、自分を通してその愛をいただく人なのだ、ということを発見するためのみことばとして、聞きたいと思います。

9月10日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「真の光に照らされ」              ヨハネの福音書9章1-7節
本日の聖書に出て来る人は、生まれつきの盲人でした。文明と科学が輝いている現代においても目の見えない人が生きて行くというのは非常に大変なことです。そうなのに、二千年前には言うまでもないことでしょう。おそらく、この人はどこに行っても自分一人では生活できない、そして誰かに助けてもらったりしないと行けない状況であったと思います。9章8節を見ますと、この人について他の人々は「これはすわって物ごいをしていた人ではないか。」と言っています。そのように道端に座り込んで、その道を通り過ぎる人々に助けを求めて、他の人々からの助けがなければ生きて行けない状況でありました。これだけでも今までの彼の人生がどれ程大変なものであったのか、想像できることだと思います。
そのような彼を見た弟子たちは、イエス様に「彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」と質問します。こういう弟子たちの質問は当時のユダヤ人たちが一般的に持っていたものであろうと言っても、非常に冷たいものでありました。この哀れな人に対する同情や憐れみ、又は彼をかわいそうに思う心はなく、冷たい視線で彼を見て質問をしているのです。ところが、それに対するイエス様の答えは、全く違うものです。3節にありますが、先ずは弟子たちの考え方が間違ったことを指摘し、彼が生まれつきの盲人であるのは罪によることでことではなく「神のわざがこの人に現われるため」なのだと答えてくださいました。そしてご自分について「わたしは世の光です。」と説明してくださいます。
暗やみの中にいる時は、何も見えず何も分かりません。自分の人生がどこに行くのも分からないまま、苦しみと辛さの中でさまよっているだけです。ところがそんな暗やみに光が照らされると、自分の人生の意味を知り神様のみわざを知るようになるのです。真の光に照らされ、神様を見上げて歩むものとなりたいと思います。

9月3日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「私はこう確信する。」             ローマ人への手紙33-39節
 パウロは大変な迫害の中を通って来ました。本文の35節と36節に書かれていることは他人のことではありませんでした。コリント人への手紙第二11章23節―27節に書かれているように、パウロは様々な患難と苦しみ、迫害の中にいました。また飢えも裸も、命を脅かす危険や剣をもあったのです。そのような自分の人生の経験について「ほふられる羊とみなされた」と言うほどの道を歩んで来たのです。そのような苦難と危険、迫害の中に置かれていましたが、パウロは35節の最初に書かれているように「私たちをキリストの愛から引き離すのは誰ですか。」と、そういうことは出来ないと断言しているのです。
 このように言葉に説明出来ない程の苦しみと絶望、苦難と迫害の真中にあったパウロが35節のように語り、その全てを乗り越えることが出来た決定的な根拠は何でしょうか。それは38節を39節でのような確信を持っていたからであると思います。本当に素晴らしい信仰告白です。「私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」私たちにも大きな力と慰めとなるみことばです。パウロは自分の命が脅かされている状況の中でも神様からの愛についての確信を持っていたのです。そして外側からの迫害がどんなに大きな者であるとしても、たとえ全世界が、全宇宙が自分に襲いかかって来るとしても神様の愛から引き離すことは出来ないと確信をもっていたのです。
 ピリピ人への手紙1章6節に「あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです。」と書かています。神様が私たちを守って下さり導いて下さる、という確信の中で、どんな苦難があっても、どんな悩みや問題があっても、私はこう確信するという告白を持って生きて行きたいと思います。

8月20日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「限りない神の愛」            ローマ人への手紙 8章31-39節
 聖書は、神様は愛の源であり、愛そのものであると教えています。そしてその神様の愛は限りないものです。その愛は永遠なものであり、完全であって乾くことなく私たちに注いで下さる愛です。本日の本文は、そのような神様の愛について良く教えてくださいます。そんな中で本日は31-34節のみことばを通して限りない神の愛について考えて見たいと思います。
 先ず、神様は私たちの味方となられて、その愛を現わしてくださいます。本文の31節に「神が私の味方であるなら」とありますが、私たちがそのような確信をもって生きて行けば、その人生はどれほど力強く、恐れることのない人生になるでしょうか。この全世界を造られた全能の神様が私たちの味方だとしたら、一体だれが私たちの敵となることができるのでしょうか、ということです。聖書はクリスチャンの人生が歩みやすいものだと言いません。この世が、そしてこの世をしばらく支配している悪魔や悪霊どもも私たちの敵となって攻めて来ます。そんな状況の中にいる私たちに、神様は私たちの味方となって下さるのです。そしてその神様は私たちのために「ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された」方なのです。罪人である私たちのために、神様はご自分において最も大切なひとり子イエス・キリストを死にまで渡して下さいました。それも惜しまずに渡してくださったのです。というのは、最も大切なものさえも渡してくださったお方が、それより小さなものを与えてくださらないはずがない、ということです。
 たとえ私たちが色々な悩みと問題で囲まれているとしても、家庭のことで如何すれば良いのか分からない状況に置かれているとしても、どんな状況に置かれていても私たちの味方となってくださる神様のことを良く覚えたいと思います。また、そのお方は私たちのために御子キリストをさえ惜しまずに渡して下さいました。そのような神様の限りない愛を覚えて、それに感謝し喜びをもって生きて行く者となりたいと思います。

8月13日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「求める人たちに」             ルカの福音書11章5-13節
 本日の本文は、お祈りをする者の姿勢やその志しについて教えてくださる例え話として私たちに良く知られている内容です。特に11章8節での「あくまで頼み続けたら」という表現は、断られた状況であっても諦めないで祈り続ければ必ずその祈りは聞かれる、と信者の祈りの姿勢に大きな励ましを与えるみことばとして良く引用されたりします。ところが、今日のみことばは祈る者の姿勢より、その人の祈りに答えてくださる神様の憐れみ深さと愛が教えられているのです。
 先ず5-8節での例え話では、友達であるということでは友人の頼みを聞いてくれない人でさえも頼み続ければ、その聞いてくれるということが描かれています。であるなら、天の父である神様はなおさらのこと、如何してあなたがたの祈りに答えてくださらないでしょうか、ということです。即ち、私たちの祈りに答えてくださる天の父なる神様のことが強調されているのです。そして11-13節においても子どもが願う物に対して決して悪い物をもって与える父親はいないということが語られています。罪人の人間さえも、父親は自分の子どもに良い物だけを与えようとするということです。そうであれば、なおさらのこと、私たちの天の父である神様は私たちの祈りに良いものだけを与えてくださるということです。そのような天の父なる神様のことを覚えて、求めなさい、そうすれば与えられます。捜しなさい、そうすれば見つかります。叩きなさい、そうすれば開かれます、ということです。
 私たちの祈りを振り返って見ましたら、どうでしょうか。そのような神様を仰ぎ見て祈りをしているでしょうか。私たちの祈りに必ず答えてくださる神様を信じて諦めず祈り続けているでしょうか。天の父なる神様は、私たちに対する愛のゆえにひとり子イエス・キリストさえも遣わしてくださいました。その神様が私たちの祈りに答えてくださって、最も良い聖霊を与えてくださることを信じて祈り求める者になりたいと思います。