礼拝メッセージ要旨

8月9日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「ひざをかがめる」         エペソ人への手紙3章14-19節

 本日の本文は、エペソ教会の聖徒たちのための祈りです。この祈りには、エペソ教会の聖徒たちに向かうパウロの熱い願いが込められています。パウロは前回まで詳しく説明した神様の素晴らしいご計画がエペソ教会の聖徒たちの経験の中ですべて成し遂げられるようにと祈ります。
 
 まず、パウロの祈る姿から、私たちは祈る姿勢を学ぶことができます。それは神様のみこころを知って、それを基にして祈りに進むということです。Ⅰヨハネ5:14にも「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。」とあります。同じく、私たちも祈るためには、先ず神様のみこころを知らなければなりません。聖書を通して神様のみこころを知り、祈りを通してそれが実現しますようにと求めることが出来るのです。このように神様のみこころを知ることと祈りは一つのセットにならなければなりません。そしてパウロは「ひざをかがめて、祈ります」と言います。聖書の中で、ひざをかがめて祈る姿を探してみると、代表的にイエス様のゲツセマネの園での祈りとステパノが殉教する直前の祈り等があります。このようにひざをかがめて祈るというのは、祈る人の真実さと切なさを表す姿勢である事が分かります。このような心をもって「天上と地上で家族と呼ばれるすべてのものの名の元である父の前に」祈るパウロです。これは、神様こそ、全宇宙を創造された創造主であられ、すべてのものの命の源であられるということです。

 そのような神様のみ前で、恐れと謙遜な姿をもって第一に祈った事は「内なる人を強くして下さいますように」ということです。それは、私たちに与えられた信仰というのは、内なる人が強くならなければならないからです。即ち、信仰生活の一番も基本であるからです。私たちは、今何を心配し、何を祈っているのでしょうか。先ず、神様が私たちに実現して下さった救いの恵みを覚えて、父なる神様の御前に、内なる人の強さの為に祈る者になりたいと思います。

8月2日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「神の永遠のご計画」           エペソ人への手紙3章10-13節

本日の聖書を見ますと、パウロの観点は広くなり天使たちに対しても神様の豊かな知恵が示されるためにと説明します。天使たちは、神様の御側にて神様に仕える存在です。そのような天使たちに、教会を通して神様の豊かな知恵が示されるようになるとパウロは語るのです。以前は一つの光のような神様の知恵が、光がプリズムを通過することによって7つの色々な色になる事と同じように、今は教会を通して神様の豊かな知恵が天使たちに示されるという事です。

この場面で、一つの大きな劇場を想像する事が出来ます。この劇場は人類の歴史のすべてを見せてくれる劇場であって、この世がその舞台である劇場です。そしてその舞台には一つの壮大なドラマが公演されますが、そのドラマは全てのクリスチャンが俳優であって、神様が直接指導し制作されるドラマであります。そのようなドラマが公演される劇場での観客として見ているのが、何と天にある支配と権威である天使たちということです。パウロを含めて、選ばれた私たち一人、一人は神様のこのドラマに出演し、演じているのです。このような神様の素晴らしいご計画を知っていたパウロは、今、ローマの牢屋に投獄されているという事さえも喜ぶことが出来たのです。

私たちが神様の恵みによって救われたというのは、神様のドラマに俳優として選ばれて出演するということです。私たちはそのドラマの中で、神様のみことばに従って、私たちの人生を通して演じる存在となるのです。神様は、このような私たちの姿を通して神様を知らない人々に福音を宣べ伝えさせます。暗闇の中にいる人々に神様のみこころを明らかにするようにして下さいます。そして教会を通して、神様ご自身の豊かな知恵をお示しになります。私たちは福音に仕える者として福音を伝えさせるために、その永遠のご計画の中で選ばれた恵みに感謝するものになりたいと思います。そしてその神様信じて、従う者になりたいと思います。

7月26日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「与えられた恵みの目的」         エペソ人への手紙3章7−9節

私たちの人生の目標を知り、その目標に焦点を合わせて生きていくならば、一つの目標に向かって力強く進んで行くことが出来ます。それはまるで虫眼鏡のようだと思います。真昼の暑い日差しは、そのままなら熱いだけです。しかしその光を虫眼鏡で一箇所に集めると、即ち一つに焦点を合わせると、紙をも燃やすことができるようになります。私たちに対する神様がもっておられる目標を知り、その目標に私たちの人生の焦点を合わせて生きていくならば、私たちは神様が喜ばれる人生を生きていくことができると思います。

先ず、私たちは福音に仕える者として神様に選ばれたということを覚えたいと思います。パウロ自身は「神の力の働きにより、自分に与えられた神の恵みの賜物によって」と言います。その言葉には、パウロ自身からのものは一つもありません。自分の使徒としてのすべての活動は、ただ神様の力によることであり、異邦人に福音を伝えることが出来たこともただ神様の恵みの賜物によるのだ、ということです。このように、神様の力の働きと神様の恵みの賜物によってのみ、私たちは神様に仕えるものとされるのです。

ではなぜ、神様は私たちを仕えるものとしてくださったのか、その理由の一つ目は、キリストの測りがたい富を異邦人に、即ち神様を知らない人々に伝えるためです。そして二つ目は、神様が天地を創られる前からもっておられた救いのご計画が、どのように実現されたのかを明らかにするため、ということです。

私たち一人、一人はパウロのように福音に仕える者とされました。それは神様の力により、神様の恵みによるものです。そして私たちが救われたこと、そのもの自体がキリストの測りがたい富と神様のご計画が実現されたことを現すものであります。そのようなものとされた私たちを通して、神様は今も 神様を知らない人々に福音を伝えるようにしておられるのです。

7月19日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「罪赦された喜び」           ルカの福音書5章17-26節

「もしも私が苦しまなかったら、神様の愛を知らなかった。」これは瞬きの詩人と呼ばれる水野源三さんが作詞した新聖歌292番1節です。水野さんは脳性麻痺で見ることと聞くこと以外は何も出来なくなりました。そのような彼がキリストに出会い罪を赦されて、やがて素晴らしい詩人になります。彼の詩は、神様への喜びが良く表われた純粋な詩であると評価されます。肉体的には誰よりも不自由な人生を送った彼ですが、彼は罪を赦された喜びで満ち溢れた人生を生きた事に違いないと思います。

本日の聖書を見ますと、ある時、イエス様のところに、男たちが中風の人を、床のまま運んで来ました。ところが多くの人が集まっていたため、入口からは入る事もイエス様に近付く事も出来ませんでした。それで男たちは、屋根に上って瓦をはがして、人々の真ん中にいるイエス様の前につり下ろしたのです。このような彼らの姿から、イエス様は「彼らの信仰」をみたと書かれています。彼らはイエス様を信じました。誰も治すことが出来なかったことを、イエス様は治すことが出来ると信じていたのです。イエス様のもとに出て行けば必ずイエス様は治してくださるということを信じて、何があってもイエス様のもとに出て来たのです。

そのような彼らの信仰を見たイエス様は「友よ。あなたの罪は赦されました。」と中風の人に仰いました。この時、多くの人々は「病の癒しではなく、何故罪の赦しなのか」という疑問をもったかも知れません。しかし、イエス様は、彼の根本的な問題を病と見ないで、罪の問題として見てそのように話されたのです。私たちは人それぞれの願いをもってキリストのもとに来ます。そうであっても、イエス様は人間の根本的な問題である罪の問題を触れて下さるのです。この問題が解決されなければ、幾ら健康であっても真の平安を得ることは出来ないのです。私たちの罪が赦された時、たとえ体は不自由であっても喜びをもって生きて行くことが出来るのです。イエス様のもとに出ていって「友よ。あなたの罪は赦されました。」という言葉を頂き、罪赦された喜びに満ち溢れる人生を生きて行きたいと思います。

7月12日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「キリストの奥義」              エペソ人への手紙3章2~6節

  本日の本文で、パウロは自分の働きについて「神の恵みによる務め」と説明します。使徒としての働きは、決して自分から選んだものではない。また、神様から特別な賜物を頂いたからということもでもない。そうではなくて、ただ「神の恵み」によって全く資格のない自分にこの務めが与えられたということです。福音とは、罪人がただ神様の恵みよって救われるということです。先ず、私たちは自分自身の事を振り替えてみて、自分が罪人であって、その罪が一方的な神様からの恵みによって赦されたという確信を持たなければなりません。
 そして次に、異邦人の救いが神様のご計画であり、神様の永遠の計画の中にあったという説明が続きます。5節に「この奥義は、今と同じようには人々に知られていませんでした。」とあります。この「奥義」とは、2章の後半から説明して来た、異邦人の救いとその異邦人ユダヤ人が一つになる事です。それは新約聖書の時代になってから、神様が急に思い出した事ではありません。それこそ、1章4節に書かれているように神様は「世界の基が置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のないものとしようと」されたのです。そして、今は、即ち新約聖書の時代には、聖霊によってキリストの聖なる使徒たちと予言者たちに異邦人の救いが明確に、そして確実に 啓示されたのです。そして最後に「奥義」について6節で説明しています。この6節は、2章11~22節をまとめたものでもあります。特に「共に」という言葉を中心にしてまとめたものです。
 私たちの過去がどういうものであったとしても、それは今の私たちの神様の民として生き方に何の問題にもなりません。そして、今、私たちが置かれている状況がどうであるとしても、同じです。神様の恵みによって、今は神様の子どもとされ、神様の家族となったのです。そして、キリストの奥義が私たちに知らされ、それを証しする人生へと呼ばれているのです。この恵みに感謝し、その証し人として生きて行きたいと思います。

7月5日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「キリスト・イエスの囚人」          エペソ人への手紙3章1-6節

 信仰生活において苦難の問題ほど、私たちの信仰を揺り動かすものはないと思います。何故、神様はご自分の民に試練と艱難をお与えになるのか。何故、使徒であるパウロが、優れた伝道者がローマも牢屋に閉じ込められるようになさったのか。パウロ書簡を見ますと、このような苦難の主題が良く扱われていますが、それほど「信者の苦難」と言うのは大きな問題でした。しかし、苦しみに対するパウロの姿は不平不満や疑問を抱くような事ではなく、ただ神様だけを見上げて福音を宣べ伝える事だけに集中しました。苦しみを乗り越えて試練の中でも喜びました。どうやってそうする事ができたのでしょうか。それは、苦難の中でも神様を見上げ、神様からその理由を見つけたからだと思います。
 パウロは、自分について「キリスト・イエスの囚人となった私パウロ」と言っています。これは、ローマの囚人ではない、ある犯罪を犯してしまって捕らえられた事ではない、ということです。人間の目に見える状況は、確かにローマ兵士に捕まったことでした。それでも、その身に鎖を巻き付けたのはキリスト・イエスだと語っている事です。そして、その苦しみの状況を通して、何故ここにいるのかを考えて、救いの喜びを思い出したのです。そして、パウロは「あなたがた異邦人のために囚人となった」と言います。実際にパウロが牢屋に閉じ込められ理由は、ユダヤ人も異邦人も同じく神様の民をなり、相続人となるという事を宣べ伝えたからです。即ち、自分に与えられた使命に忠実で、あなたたちに福音を伝えるためであったという事です。
 今日、私たちも、私たちが誰かのために苦しむ時、その苦しみ自体より、神様を見上げるようになりたいと思います。パウロが投獄されている状況の中でも、その現実を見て判断するのではなく神様を見つめて判断したように、その状況に導いて下さった神様を見上げて覚えたいと思います。

6月28日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「聖なる宮」                 エペソ人への手紙2章20‐22節

本日の本文でパウロは、聖徒たちはキリスト・イエスにあってともに建てられて成長し、神様が住まわれる聖なる宮となる、と語ります。その聖なる宮は、「使徒と預言者という土台に建てられている」のです。この「使徒と預言者」というのは、福音を伝えるためにイエス様によって遣わされた者、そして神様によって啓示されてキリストについて証しする者です。そうであれば、「使徒と預言者という土台」というのは、神様のみことばである聖書であり、その中心的な教えの福音であります。ですから、私たちはみことばの上に建てられているということです。

そして、キリストご自身が礎石であると言います。礎石というのは建物の中で一番重要な部分であって、建物を建てる時、各壁の基準となり、建物全体において基礎となる石であります。建物全体がこの礎石を基準にして真っ直ぐに建てられて行き、調和をし、丈夫に建てられるのです。このようにみことばの上に、そしてキリストを礎石として組み合わされた一つの建物、これが教会なのです。

ところが、パウロはこの組み合わされた建物が成長すると言います。それは聖徒一人、一人が成長することによって教会という建物全体が成長するという事です。また、成長という言葉から、教会にいのちが流れているという事が分かります。このように私たちはキリストにあって、一つの建物として聖なる宮となり、この宮に神様が住まわれるのです。

私たちは、皆が礎石であられるキリストに固く根をおろして、キリストに頼り、そのキリストとの関係の中でともに成長して行かなければなりません。このイエス・キリストにあって、御霊において、神様が住まわれるみ住まいとして私たちが共に建てられているという恵みを覚えたいと思います。そしてキリストを通して罪人であった私をご自分の国の国民として、ご自分の家族として下さり、ご自分のみ住まいとなる聖なる宮として下さった事を覚えて感謝したいと思います。

6月21日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「イエス様に触れられる」          ルカの福音書 5章12-16節

 本日の聖書は、イエス様がツァラアトの人を癒して下さった内容です。その内容から、イエス様は良い教えだけを教えて下さったりするのではなく、実際にその病人を触れて下さり、その問題を解決して下さるお方であることが分かります。
 先ず、「ツァラアト」についてです。この症状について聖書から分かることは、ある原因から皮膚に腫れものや斑点のようなことができて、その部分が周りの皮膚よりへこんでいるように見える状態のことです。これは皮膚だけではなく、衣服や家の壁などのように物にもできる症状であって、今日のハンセン氏病や色々な皮膚病をも含めるものです。この病気にかかった人は、汚れたものと宣言され、町から隔離されたところで生活しなければならなかったのです。このようなツァラアトにおかれた人は、肉体的、精神的な苦しみの中で生きて行かなければならない非常に厳しいものでした。
 そのようなツァラアトの人がイエス様の前に出て来て、その前にひれ伏して「お心一つで、私をきよくしていただけます。」と言いました。これは、その人の勇気ある行動であり、強い希望であり、同時にイエス様への信仰の告白でもります。何故なら、ツァラアトの人が、人々の集まっているところに出て来ると言うのは、自分の命を失うかもしれない事であるし、そのような危険を超えてイエス様に願った事だからです。
 そんな彼にイエス様は「手を伸ばして、彼にさわり『わたしの心だ。きよくなれ』」と、何の躊躇いもなく、即座に答えて下さいました。イエス様は言葉だけでも彼を十分治すことが出来ましたが、彼に手を伸ばして触れて下さったのです。このようなイエス様の姿は、その人の病気を治してきよめて下さって、救いに至るようにして下さったことです。真の救いのみ力をもっておられるお方であるゆえ、手を伸ばして触れて下さったのです。私たちは、このイエス様の暖かいみ手に触れられていることを、そしてその暖かいタッチが私たちの人生にも注がれていることを覚えたいと思います。

6月14日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「神の家族」          エペソ人への手紙 2章17‐19節

 本日の聖書には、2章の14〜16節に説明されている「キリストがなされた平和」がどうやって私たちに与えられたのか、それによって罪人であった私たちはどうように変わったのかということが良く説明されています。
 まず、キリストご自身が私たちに平和を宣べ伝えて下さったのです。それは、イエス・キリストが聖霊によって、弟子たちや教会を通して福音を伝えて下さったということです。ですから、私たちに福音を伝えた人が誰であれ、その時、キリストご自身が聖霊によって、その人を通して私たちに福音を伝えて下さったのです。 
二つ目は、父なる神様のみもとに近付く事が出来るようになったという事です。本文の「近付く」という言葉は、旧約聖書では神様にいけにえを捧げる場合に使われました。旧約聖書の時代には、1年に1度、大祭司という一人だけが神様に近付く事が出来たのです。そして支聖所に入る大祭司は、その中で自分の命を失うかも知れない、大変恐ろしいことでした。しかし今はキリストが成して下さった平和によって、私たちが神様に近付く事が出来るようになったのです。キリストによって、御霊において神様が私たちを愛しておられるという確信を持って、その恵みのみもとに近付くことが出来るのです。
 三つ目に、キリストの平和によって神様に近づけられた私たちは、神の国の国民であり、神の家族であるのです。以前の私たちは「キリストから離れ、イスラエルの国から除外され、約束の契約については他国人であり、この世にあって望みもなく、神もない人たち」でした。しかし、今は神の国の国民であり、神の家族です。それは、神様が私たちをご自分の子どもとして下さり、神の家族として下さったということです。ご自分の家族の一人として、受け入れて下さったのです。 
 私たちが、毎週神様に礼拝している事を感謝しましょう。そしてキリストを通して罪人であった私をご自分の家族として下さった神様の恵みと愛を覚えて感謝しましょう。

6月7日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「私たちの平和」            エペソ人への手紙 2章14-16節

私たちは神様から遠く離れていた者であって, 神様をも知らない人たちでありました。そのような私たちに神様がご自分の豊かな恵みのゆえに、救いを与えてくださったのです。そして、それによって私たちは、もはや神様から遠く離れているものではなく、キリスト・イエスの中で、そのお方の血によって、神様と近いものとされました。それは、ただ神様の偉大なみ力のみによって出来たことであり、私たちはこの恵みの救いの出来事を通して、私たちが信じている神様のみ力の大きさを覚えることが出来るのです。

それでは、神様と遠く離れていた者がどうやって神様と近いものとされたのでしょうか。イエス・キリストは私たちのために何をなさって下さったのでしょうか。まず、本日の聖書にはキリストご自身が真の平和のお方であり、その方が平和そのものであるということが書かれています。また、イエス・キリストが、ユダヤ人と異邦人の間にあった大きな隔ての壁を打ち壊されたと言っています。二つのもの、ユダヤ人と異邦人という敵対関係にあったものが、その間にあった隔ての壁が壊され、新しいひとりの人に造り上げられるのです。その新しいというのは、私たちが持っている悪い部分を修正したり、改善したりするほどではなく、全く新しくご自分の中で創造して下さることです。また、ひとりの人とは、教会のことであって、イエス・キリストによって新しく造られた教会を通して真の平和が実現されるのです。

敵対関係にあった二つのものがイエス・キリストにおいて一つの新しい人となり、教会という一つの体として神様と和解させられる事、これこそ私たちに与えられた真の平和なのです。Ⅱコリント5:18には「これらのことはすべて、神から出ているのです。神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。」と書いてあります。私たちの真の平和となってくださったキリスト・イエスを覚えましょう。そして聖霊の導きを頂いて和解の務めを尽くす者へと変えられていきたいと思います。